家に誰が居るものか。彼は一時にかつとなつて、瞳を据ゑてお使僧の方を見つめた。
 お使僧の説教は、彼女にとつては覗《のぞき》からくりの歌声《うたごえ》よりも猶無関心のものであつた。唇はたゞ動いて居るとしか思へなかつた。之を聴聞したい為に彼女はこゝへ来たのではない。帰つてしまはうと思へばすぐ帰つてしまへるのである。話に身を入れて聞くと云ふ様な殊勝な気は彼には決して起らない筈であつた。それが実に不思議である。彼が反省も思索もなく、きつとお使僧を見つめたとき、彼女は溢るゝ計りの熱心と真実との籠つた彼の説話の二言三言を聞くとはなしに聞き入つた。
「さて御同行衆《ごどうぎやうしう》、之から一大事の後生のことでござる。よく聞いて貰はなけりやならん。」
 お使僧は詞を切つて、一度座中を見まはして、やがて話をつゞけた。
「炎天つゞきの真夏のことであつた、俺《わし》はこの夏米山越をしました。峠の上りにかゝつた頃はもう午下り、一時頃ででもあつたでありませう。何しろ熱い日盛のことだから、土から熱気が火焔のやうにもえあがる。そろそろ足も疲れて来る。汗はだらだらと流れて、目の中へ流れ込むと云ふ有様ぢや。小風呂敷一つの空身《からみ》の俺《わし》ですら、十足《とあし》あるいては腰をのし、一町あるいては息を休めなければならない熱さでありました。
 頂上近く行つたとき、俺よりも少し先に一疋の黒馬が、米俵を一杯に背負はされてこれもやつぱり山越えをして居るので、俺《わし》よりもずつと先に出かけたのであらうが、俺《わし》は空身《からみ》のことだから、そこで追ひついたのでありました。
 馬子が一人手綱をとつて居た。馬はもうへとへとになつて居た。両足はしつかと土にしがみついていくら引つぱつても動かない。もがけばもがくほど、口縄が緊めつけて、鉄の轡が舌を噛むのぢや。口から白い泡が吹きたつやうに湧いて出るのぢや。汗と云つたら俺達人間のものとは又違つて、滝の様だと云ふ形容が全く相当して居ました。あの様子では一足《ひとあし》だつて歩けたものぢやない。
 それでも馬子は容赦もなく責めつけて居る。綱のはしでびしびしとしわく[#「しわく」に傍点]のである。しなしなした棒の鞭でなぐりつけるのぢや。そして『畜生』『畜生』と云つてどなつて居る。堪《たま》らないのは馬ぢや。痛いのとがなられる[#「がなられる」に傍点]のとで、一所懸命の力で歩かうとするのぢやが、どうしたつて動けない。もう自分の力で自分を動かすことが出来なくなつてしまつて居《ゐ》たのぢや。」
 お使僧は、それを見兼ねて馬子に忠告した。少しは休ませてやれ、馬だつて気の毒ではないか、此熱いのに此重荷だ、動けるものではないぢやないか。死力を出しても足が動かないので、息もへとへとになつて居る。目を見なさい、目を。何と怨めしさうな目をして居るではないかと諫めても見たが、馬子はどうしても聞き入れない。余り云ふと怒り出すので、自分はたうとう見捨てゝ上つて行つたと云ふ成行きまでを語巧みに語り了つて、
「どうだ同行衆。これぢや、人間の姿は正に此馬ぢや。憎いと云うては、悲しいと云うては、人のものが欲しい、おのれの身がかはいいと云つては、寝ると起きると、心の鬼が責めたてる。娑婆は米山越だ。四苦八苦の鬼は馬子だ。人間は馬ぢや。綱でしはがれる[#「しはがれる」に傍点]。鞭でうたれる。荷は重くて、足は疲れて居る。早く此峠を越しさへすれば安楽浄土は十方光明の世界を現じて、麓に照りかゞやいて居る。処でその峠が六かしい。険《けは》しい道ぢや。深い谷が左右に見える。恐しい娑婆ぢやなう。それをふびんぢや気の毒ぢやと思召して、罪業の深い我々凡夫をお救ひ下さると云ふのが阿弥陀如来の本願ぢや。何と有り難い仰せぢやあるまいかなう。」
 説教の終る頃は、一座のもの皆が酔へるが如き心持であつた。なんまんだぶつ[#「なんまいだぶつ」に傍点]と呟くやうに称名する大勢のものの声は、心の底から自ら溶《とろ》けでるやうに室中《へやぢゆう》に満ちた。微《かすか》に鼻をすゝるものさへあつた。
 一時に皆が帰りかけた。六角の手作りの提灯に火をともす間は、挨拶をし合つたり雑談を取りかはしたりして、なかなかさうざう[#「さうざう」に傍点]しかつた。おつかさま[#「おつかさま」に傍点]は一々《いちいち》
「大儀だつたなう。」「やすみやれや」などと、村の人々を見送つて居た。十分とも経たない間に、すつかり出て行つてしまつて、跡は火の消えたやうにぽかんとしてしまつた。
 盗人の女房はこのときまでも座を立たなかつた。お説教に引ずり込まれて、彼は帰ることも忘れて居たのではあるまいか。お説教が彼の要求のどんぞこを突いたので、彼は悔と光明と法悦を心から感じた為でもあらうか。生活の苦悩に日々責め苛《さいなま》れて、益
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