つた処が廻り縁になつて居て、中は四間の奥行二間許りの板敷がある。それは村の児守子どもの遊び場で、三方ともがらんどうの、戸締とてもない。それから又一段上つて、云はば内陣ともあるべき幅一間程の細長い板の間の奥に龕《おづし》がある。千手観世音が祀つてあるのだ。彼は何と云ふ考もなしに、ふらふらと縁に上つた。そつと草履をぬいで素足のまゝ板敷の板を踏んだ。暗いので足許も確かでない。と、何か足の裏にさゝつたやうな気がして少しく痛かつた。それは※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《くぬぎ》の殻《から》を踏んだので、踏まれた殻は平らにへし潰された。疵をするまでもないものであつた。彼はちつと舌打をして、忌々しさうにそれを拾つて抛りつけた。
やがて龕《おづし》の前に近よつた。太い格子戸の戸が左右から引かれて、太鼓錠が枢《とぼそ》の真中に下つて居る。彼は手さぐりに戸前《とまへ》の処を撫でて見た。冷たい鉄の錠がひやりと彼の指先にさはつた。これと云ふ悪心の起つた訳ではなく、此戸が開けて見たいと思つて手さぐりをしたのではなかつたが、錠と云ふものが自分と龕との間をしつかり仕切つてあることが、云ひしれず憎悪の感じを募らせた。
綿緞子《めんどんす》の赤い幔幕はもう色があせて居《ゐ》る。信者の寄進したものと云つても、押絵細工の額面か、鼻や手足の欠けた人形か、絹の色糸がかがつてはあるが何の値もない手毯か、そんなものより外は、一つだつて金目の籠つた品物のないのは、彼がふだんようく知つて居る所である。そこへはひりこんで、彼は何を盗み出さうとするのであらう。彼はもとよりそんなことを意識して居るのではないのであつた。只この扉の中は滅多に他人が覗いたことはないものである。かうして、ぢつとこゝに立つて、ぢつと此扉の中を覗き込んで居ると、どうやら自分ばかりが見ることの出来る不思議の宝物が蔵《しま》つてあつて、そこに富と幸福とが、水銀を撒いたやうに散らばつて居る。それを自分丈がこつそりと攫んでしまふことが出来るのではあるまいかと思はれるのであつた。
彼は二三度錠をねかしたり起したりして見た。鍵がないから明きさうなことはない。
「たゝいたら此錠はゆるむのだ。」彼はかう思つて、堅い木切れか、石ころが欲しくなつた。一旦縁を下りて、そこいらを探《さが》さうとしてもとの板敷の方へ歩みを戻した。足元がふらふらする。股のあたりはすつかり力がぬけてしまつて、耳はほてり、頭がむしやくしや[#「むしやくしや」に傍点]するのを感じた。彼が閾際《しきゐぎは》近く来たとき、村の女房達らしい者が二三人高声で話し合ひながら、往来を通つて行くのが彼の目にも見えた。これはさつき御堂に上つてから初めて彼の知覚にとまつた人の気勢である。御堂へ上つてからこれまでの時間は本統はそんなに長い時間ではなかつたが、彼には非常に長い長い時間と感じられた。そしてその長い時間の間、自分はこの世界にたつた一つ動いてゐるものであるとばつかり彼は感じて居た。それが今人声に気がついて見ると、彼は此世の我に蘇へつた。
「おらあ、仏様の罰を忘れてゐた。」
彼は急に恐しくなつて来た、べたりと縁の上に坐つた。
夜の空は晴れて居た。月は無いが、星が、宵の黄《きいろ》い色から、だんだん白い光に変つてしまつた。さやさやした風が横手の竹薮を吹いて、広前の砂の上に落ちた。
女はやつと起き上つて、階段を下りた。一歩《ひとあし》づゝたしかに踏みしめて、堂の鼠にも聞かれないやうに足音を偸むのであつた。下りてしまつて彼は、どこへ行くべきか、全く目的はないのである。
体《からだ》の向方《むき》をも知らずに彼は歩み出した。後《あと》ずさりをして居るのかと見える程僅かづつ前に出た。夜は暗い。と、彼の鼻先に、巨大な真黒なものが彼を圧して立ちはだかつた。彼ははつとした。全身の毛孔が一時に寒けだつた。冷たい汗が背中に滲み出た。
樅《もみ》の木である。此境内にたつた一本ある樅の木である。口碑から云へば百五十年以上の老木である。根元の洞《うつろ》に、毎年熊蜂が巣を作る。蜂退治だと云つて、多勢の腕白共が、棒切れをさしこんだり、砂を投げ込んだり、或は火をつけて焼かうとしたりする。蜂は又自らの生活の根城を死守して屡侵略者を刺した。かう云ふ戦が繰り返されてからも、もう何十年になることやら。木は亭々として四時の翠色を漲らして居る。
真直に往来へ出るつもりなのが、彼はいつしか左にそれて樅の木の下へ来て居たのであつた。さうとはつきり解つてしまへば、一時の恐怖はなくなつた。
およそ此村に住むもので、観音様の樅の木を知らないものがあるものか。叉此村に生れた子供でこの木の下に遊ばないものがあるものか。この木の上に鴉が啼いて夜が明ける。この木の上に鴉が舞つて日が此上でくれる。天気
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平出 修 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング