々|邪《よこしま》と偏執とに傾きかゝつた彼の習性が、一夕の法話に全く矯め直されたのでもあらうか。
 彼女の智識は、それが何であるかと云ふことを分解《ぶんかい》するには、遠く足りないものであつた。彼は何となく頭を掻きむしられるやうに感じたのであつた。自分と云ふものは、風の前の糠くづのやうに、すぐにも飛んで行つてしまつて、其行方さへ知れなくなるのではあるまいかと云ふ様な、漠とした不安が彼を襲ふのであつた。死ねばこんな苦艱がない。阿弥陀様のお力にすがりさへすれば、死んで極楽へ行かれる。どんなに安楽に、どんなにのびのびした生活が出来ることであらう。彼はそんなことをも考へて居た。
「儀平とこ[#「とこ」に傍点]のかかあ[#「かかあ」に傍点]。お前ばつかりになつたがなう。」
 おつかさま[#「おつかさま」に傍点]には、彼女が今夜来たのさへ解し難いことであるのに、かうしてたつた一人残つて、頭をあげずに居るのが一層をかしく思はれた。暫く返事もないので、
「お前どうするつもりだい。」
 かう云《い》つておつかさま[#「おつかさま」に傍点]は彼女の小さくなつて居る姿を見た。
「わしかね。わしは死ぬがんでござんせう。」
 彼女は、何を云ふ積りであつたか、自分でもよく分らなかつたが、かう云つた詞だけは彼も意識して居るのであつた。
「なにを云ふのだい。お前。」おつかさま[#「おつかさ」に傍点]まは驚いて、
「そんな馬鹿げたことを云ふもんじやないぜ。人がきいても聞きばが悪いからなう。さあ帰りやれや。大分に遅いんだから。」
 おつかさまは、和《やはら》かな調子で云ひきかせて、傍《わき》にあつた駄菓子を紙に包んで、彼女の前にやつた。
「子供もまつてゐるからなう。」
 彼女は無性《むしやう》になつかしくなつた。情味の籠つたおつかさま[#「おつかさま」の仰《おつしや》り方が涙を誘つたのか。もつと大きな人生の暖みと云ふことが心をそゝつたのか。和《やはら》いだ感情、寂しいと思ふあこがれ、邪《よこしま》と嫉《ねたみ》とがもつれあつた偏執《へんしふ》。これ等のものが一しよになつて彼の涙腺に突き入つたのか。彼は詞もなく泣いた。
「はい。まことに…………。」
 何《なに》をするのも懶《ものう》いやうな身体を起して、彼は戸口へ出た。さつきの人達はもう銘々の行くべき処へ行き着いたらしい。下駄の音も、話声も聞えない。夜
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