た。
「初まつて居るのだぜ。ずつと前にござらつしやい。」
 燭台の灯《ともしび》と彼女の姿との間に大きな影があつて戸口は薄くらがりになつて居た。その影になつて居た老人が少しく体をねぢつた。明りは何ものの遮りもなく彼女の横顔に光をさしつけた。
「儀平とこのかか[#「かか」に傍点]だないか。」
 おつかさま[#「おつかさま」に傍点]は、半ば驚き半ば怪んだ。
「はい。」彼女はたつた一言を云ひ得たきりであつた。
 このあとをどう云つていゝかおつかさま[#「おつかさま」に傍点]にもわからなくなつて来た。村の人々もこの思ひがけない出来事に肝を潰して、挨拶の仕方もないやうであつた。お説教がやがて続き出したのをいゝしほ[#「しほ」に傍点]だとも思つたらしく、みんながもとの様に正面向《まとも》に身体を直した。大きな影が再び彼女と灯との間を遮つた。
「おれもお聴聞《ちやうもん》に来ました。」
 暗い蔭から死ぬやうな声で彼は云つた。
「かかあ[#「かかあ」に傍点]。前へ出らしやい。」
 一番近くに居た姉様《あねさま》は、姑《しうとめ》の心を測りかねたが、取りなしをするつもりで、
「そこは入口だがなう。もつと前へ出たはうがいゝがなう。」
 彼は優しい姉様《あねさま》だと思つた。その詞について少しゐざつて、二尺程膝をすゝめた。それでも折り曲げた足の先が閾にさはるほどの端近である。かうしてやうやうのことで彼女は此の室内の一人となつた。けれども村の人々のまはりに漂つて居る空気と、彼女一人を包んで居る空気とは、丸で別々のものであつた。たとひ何十人あらうとも彼等と彼等との間には一脈の情味が流れ通うて居るが、彼女と彼等との間には、何の交渉もない。彼女一人は突然の闖入者にすぎないのである。只無智無自覚である此女にも、孤独の寂しさに堪へることの出来ない本能的慾望が、盲目ながらも根強く働いて居た。宇宙の大法則に引きずられて彼は今こゝに衆人の冷たい顧眄《ながしめ》を慕うて来た。しかも人はどの様な気分を以て彼を迎へたか。愚かな女にもすぐ想像が出来た。そして其想像が少しも間違はなかつた。「盗人の妻」はやつばり「盗人の妻」であつた。優しいと思つた姉様の親切な詞につり出されて、やつと片隅の一人となることはなつたものの、彼はそれで満足は得られなかつた。嫉《ねたみ》と邪《よこしま》とがむらむらと彼の心に湧き立つた。こんな
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