の木は、なんにも食はなくつても生きて居るがんだ。」
 彼女は呟くやうに独語した。

「かん、かん、かん。」初三つ四つは緩く、中程は急調に、終りは又間のびた拍子で、板木《はんぎ》の音が鳴つて来た。眠に落ちつゝある村中の人の疲れた頭をつきぬけて、音波の震動は西風の吹くがまゝ、遠い東の空へ漂ひ去つた。彼女もその音を聞いた一人であつた。最も深い感銘と情趣とを刻みつけられた一人であつた。彼は消えて行く余韻の名残をも聞き洩すまいとするかの如く、ぢつとぢつと耳を澄して居た。
「さうだ。今夜お説教があるんだ。お使僧様がござらつして、親様のうちで。」
 かれは昼のうちにこのことを聞いて知つて居た。もう今頃は村の人々がより集つて居る頃である。が誰一人彼女を誘つたものはない。今鳴つた板木はお説教の初まる知せであるとは云へ、彼女にも来いと云ふ様な懐しみの籠つた響とは聞えなかつた。汝は村外《そんぐわい》だ、汝はこの音に耳を塞いで一人でつつぷして居ろといふ様な怨めしい調子を帯びて居た。かうして何か事ある毎に村の人から彼れはのけものにされてしまふ。一日々々に彼と村の人との親しみは剥げて行く。このまゝにものゝ三月もつゞいたなら、彼は見も知らぬ他人を見るやうに村の人から目を反《そら》されることにもならう。段段|先方《むかう》では憎しみを増し、此方では邪《ひが》みが募る。意地を張つても、悲しいことには、彼女の一家は人の情《なさけ》と憐みとで生《い》きなければならない。腰を屈めて裏口から、口《くち》を糊《ぬ》らす米の汁をでも貰はなければならない。隔てが出来て困窮するのは彼女ばかり、彼女ばかり。彼女の一家ばかり。一人ぽつちになることは、どうしても彼には出来ないことである。
 怨めしいとのみ思つて居た板木の響は彼女の心を妙に惹きつけた。自分も行つて見たい。何と人が思つても自分は村外《むらはづれ》にされつ切りになつては居られない。これがいゝ機会《しほ》になつて、親様へ出入が出来るやうにもならう。これから先、人から別物扱にされないやうにならう。何が恥かしいのだ。何が恐しいのだ。私の良人は泥棒にまでなつた。それに比べれば何ともない。
 彼女はふてぶて[#「ふてぶて」に傍点]しい心になつて、老木の下を離れて親様の方へと足を進めた。
 去年の秋中彼女はあの家の日傭取をして居た。綿取、麦蒔、大根取などに、多くの男共や女
前へ 次へ
全18ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平出 修 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング