たりはすつかり力がぬけてしまつて、耳はほてり、頭がむしやくしや[#「むしやくしや」に傍点]するのを感じた。彼が閾際《しきゐぎは》近く来たとき、村の女房達らしい者が二三人高声で話し合ひながら、往来を通つて行くのが彼の目にも見えた。これはさつき御堂に上つてから初めて彼の知覚にとまつた人の気勢である。御堂へ上つてからこれまでの時間は本統はそんなに長い時間ではなかつたが、彼には非常に長い長い時間と感じられた。そしてその長い時間の間、自分はこの世界にたつた一つ動いてゐるものであるとばつかり彼は感じて居た。それが今人声に気がついて見ると、彼は此世の我に蘇へつた。
「おらあ、仏様の罰を忘れてゐた。」
彼は急に恐しくなつて来た、べたりと縁の上に坐つた。
夜の空は晴れて居た。月は無いが、星が、宵の黄《きいろ》い色から、だんだん白い光に変つてしまつた。さやさやした風が横手の竹薮を吹いて、広前の砂の上に落ちた。
女はやつと起き上つて、階段を下りた。一歩《ひとあし》づゝたしかに踏みしめて、堂の鼠にも聞かれないやうに足音を偸むのであつた。下りてしまつて彼は、どこへ行くべきか、全く目的はないのである。
体《からだ》の向方《むき》をも知らずに彼は歩み出した。後《あと》ずさりをして居るのかと見える程僅かづつ前に出た。夜は暗い。と、彼の鼻先に、巨大な真黒なものが彼を圧して立ちはだかつた。彼ははつとした。全身の毛孔が一時に寒けだつた。冷たい汗が背中に滲み出た。
樅《もみ》の木である。此境内にたつた一本ある樅の木である。口碑から云へば百五十年以上の老木である。根元の洞《うつろ》に、毎年熊蜂が巣を作る。蜂退治だと云つて、多勢の腕白共が、棒切れをさしこんだり、砂を投げ込んだり、或は火をつけて焼かうとしたりする。蜂は又自らの生活の根城を死守して屡侵略者を刺した。かう云ふ戦が繰り返されてからも、もう何十年になることやら。木は亭々として四時の翠色を漲らして居る。
真直に往来へ出るつもりなのが、彼はいつしか左にそれて樅の木の下へ来て居たのであつた。さうとはつきり解つてしまへば、一時の恐怖はなくなつた。
およそ此村に住むもので、観音様の樅の木を知らないものがあるものか。叉此村に生れた子供でこの木の下に遊ばないものがあるものか。この木の上に鴉が啼いて夜が明ける。この木の上に鴉が舞つて日が此上でくれる。天気
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