たんだ、蔭乍ら喜んで居たよ。」
「どうも御親切様。」
「しかし女はかうも変るものかね。それにくらべるとお糸さんはいつもおんなじだが、一体いくつかね。」
「もうおばあさんですよ。」
「さうでもあるまい。けれど初めて遇つたときだつて、まさか十九や二十ぢやなかつたんだからなあ。やつぱりひとりかね。」
「誰が相手にしてくれますものか。」
 舞台の用意が出来たと見えて、木がはいつた。やがて幕あきのしやぎりの鳴物《なりもの》が耳に近く響いて来た。

 私達の連中もいろいろ変つた。松田君は二年程掛かつて拵《こしら》へ上げた保険会社と銀行とで、社長やら頭取やらの位置を占めて、青年実業家として方方を切廻して居る。草香君は其会社の支配人となつた。宮川君は何か失敗して姑《しばら》く音信もしない。一番気の毒なのは種田君で長いこと患《わづら》つた。そして脊髄の疾患で立ち居が不自由になつた。小半里の路さへ歩くにも容易でない。ふだん半病人の生活をつづけて居る。去年の一月の中頃であつた。種田君と私の家族とが穴守《あなもり》へ遊びに行つて一泊して夕方帰途についた。蒲田で乗換へた品川行の電車が生憎《あひにく》混雑して居つて、腰をかける席もなかつた。種田君の病体では釣革をたよりに立つて居るのが苦しさうであつた。中途でしやがんだりしてやつと品川へついた。電車を下りたら目まひがしてあるけぬと云ひ出した。どこにか休んで行かうと云ふことになつたが、どこへ行くと云つても外に知つた家もないから、「桔梗」へでも行かうと云ひ出した。細君達や子供は先へ帰ることにして私が残つた。
 二人は「桔梗」の入口の戸をあけて中《うち》へはいつた。六畳の上り端《はな》で欅《けやき》の胴切《どうぎり》の火鉢のまはりに、お糸[#「糸」はママ]さんとおなかさんとがぼんやりして居た。今私達があけた戸口から外の寒い空気が、いいあんばいに暖《ぬく》まつてゐた二人の女の肌《はだへ》をさした。なげしの上の神棚の灯がちよつとまたたいた。
「今晩は。」
「あらつ。」二人の女は等しく目をあげた。
「いやお久しう。」種田君は例の調子で、例の笑ひ方をした。
「お糸さんは。」
「居ますのよ。まあお上《あが》りなさいまし、」と私達の方へ云つてお仲さんは二階の方へ、
「お糸姐さん、お糸姐さん、」と呼んだ。そそくさと二階を下りて来たお糸さんは、
「どうなすつたの、」と云つて種田君の外套に手をかけて半ば脱《ぬ》ぎかけたのを受取つて、
「全くねえ、あんまりなんですもの、」と訳の分らぬことを云ひつつ,お仲さんの袖をひいて、
「お二階はなんだしね。」
「一寸休ませて貰へばいいんだ、奥でいいんだよ、」と種田君は中腰になつて火鉢に手をかざした。
「今日は穴守の帰りさ。種田さんが気分がわるいと云ふんで、奥さんの承認を経てここへ来たんだ。あたたかくしてやつてくれ給へ。」
 二人はやがて奥へ通つた。座蒲団が薄いからつて二つも重ねてくれたり、火鉢は二つで足りないつて三つに火をかんかんおこしてくれたりして、お糸さんは一人でせかせか働いて居た。少し落付くと種田君も気分が直つた。お腹《なか》がすいたので何かの誂《あつらへ》もした。お糸さんは湯婆《ゆたんぽ》をこさへて寝巻と一つにもつて来て、
「まあこれでも抱いて、お寝巻をおひきなさいまし、本統にびつくりしましたわ。それでも忘れて下さらなかつたんですわねえ。」と云つて気をかへて、
「種田さんは長いことおわるくいらつしつたんですつて、お話は承つてをりましたんですけど、お見舞も致しませんですみません。ちつとはおよろしいんですか。まだおわるさうね。お困りですことねえ。」
「こんないい人が、こんな病気になるつてのは実に天道様《てんたうさま》もひどいよ。」
「全くねえ。どこがお悪くいらつしやいますんです。」
「ここの辺だ、」と種田君は腰のまはりを撫でて、
「腰がふらふらするのでね。」
「まあ、どうしてそんな御病気に。」
「道楽の報《むく》いさ。」種田君は笑ひ乍ら云つた。
「貴方にそんなことがあるもんですか。ねえ栗村さん。それはさうと少しはおあつたかくなりましたの。」
「大きに。お蔭で、結構、結構。すつかりいい気分になつた。おもちやさんでも呼んで貰はうか。」
「およろしいんですか。そんなことをなすつても。」
「おもちやが来たつて、口説《くど》くと云ふ訳ぢやないぢやないか。」
「あら、さうでしたわねえ、」とお糸さんは、立つて膳を運ぶやら、寂しいから景気づけにと銚子を一本もつてくるやらして居た。間もなくおもちやが来た。
「いよう。」種田君はこの大人《おとな》びた女の姿を好奇の目で迎へた。
「いやよそんなに、あたしの顔ばつかり見ていらしつて。」
「別嬪《べつぴん》になつたねえ。」間延《まのび》の口調がいかにも誇張のない驚きを
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