はぶ》りの踊。伊勢|音頭《おんど》の作りかへもさせられた。俺は外ヘ出る必要もなくなつた。柔媚《じうび》を四畳半に求むることも出来なくなつた。俺は一時間の黙想をすら許されないのである。独逸民法精神論の解説を公刊した頃は、頭脳の明晰を以て天下に迎へられた俺が、此頃は全く疲れた。俺の官能は強烈の刺戟に生き、俺の肉体は楽欲《らくよく》にとろかされた。精神がぽうつとすることさへある。俺の魂はどこへか行つてしまつたのではあるまいか。こんなことを思つて、そのかくれ家《が》をさがさうとする、すぐ愛子の額付《ひたいつき》が眼底に浮ぶ。俺はそれを払ひのけることが出来なくなつてゐるのであつた。
俺は先だつて愛子につれられて帝劇へ行つて見た。あの堅い建築物と、色彩の強い装飾の中では、女の縞《しま》お召《めし》の着物がちつとも見|映《ば》えがしない。愛子が「あすこは椅子ですから」つて洋装で行つたのには、俺は驚いた。あの女は既に舞台と自分との関係を考へて居たのであつた。或は無意識であつたかもしれないが、とにかくある調和を感得して居たのであつた。其日の見物中には五六人の芸者も見えて居たが、薄暗い座敷の中で、柔かい曲線を作ることにならされた身体はここへ来ては螢ほどの光も放たない。それに比べると、あのけばけばしいおつくりをして、男の様な足取であるきまはつて居た女優の方が、ずうと人目を惹く、幾層倍の刺戦を与へる。俺はつくづく思つた、女の風俗も一転化するんだと。愛子は既に一転化した女であるかもしれない。
一転化した女を自分は好くのであらうか。俺の頭はこんな疑問にぶつつかると、全く度を失つてしまふ。落伍者だと云つて世人から冷罵を浴びせかけられて居る人があるが、俺もその落伍者になつて居るらしい。友人の浅田が狭い庭の中で、二千円もかけて温室をつくつた。その傍へ萩、桔梗、女郎花なんどを三間《さんげん》四方ほど植ゑこんで、まん中に水道をひいて細流を作つた。俺は温室の中を覗いてるよりも、僅四五時間で作りあげたと云ふ秋草の庭が気に入つた。俺は自分で洋服が嫌ひだ。それははきぬぎに手数がかかるからだ。俺は又女の洋装がきらひだ。之は日本の女がすらりとして居ないからだ。愛子は比較的に洋装が体につく。夜会へ出てもひけはとらない。けれども俺は本統は嫌《いや》だ。愛子は誰の為に洋装をするものか。みんな俺に見せたいばかりなのである。俺はそれが嫌なのだ。女は容色の衰へをかくす為に目新しい扮装《ふんさう》をさがして移つてあるく。俺は愛子がさう云ふ技巧に浮身をやつして居るのを感謝するのが当然であると思つても、俺はかうして羽がひじめにされて行くんだと云ふ考へが先に立つ。それでもよせと一言《ひとこと》云つたことはない。俺にはそれを云ふことが出来ないのだ。
此間も上野へつく汽車の時間を見計《みはか》らつて、愛子は俺を出迎に来た。俺は初めは愛子とは思はなかつた。車を下りてプラツトホオムのたたきを歩いて居ると、改札口に若い女が美しい洋装で立つて居る。別に一等室には乗合客もないのであるが、誰の出迎をして居るのであらうと、俺はそろそろ近よつた。するとそれが愛子であつた。新橋ならまだしも、上野では一寸珍らしい出迎へだ。改札口の内外《うちそと》に人だかりがしてどの目もどの目も愛子に注がれて居る。俺は心に怯れが出て来た。むづがゆい様な思ひもした。愛子は外に人が居るのか居ないのか、そんな頓着もないらしく、つとよつて来て俺に握手を求めた。俺は其手を払ふことが出来なかつた。俺は誰が見ても六十に近い半白《はんぱく》だ。愛子は精精で三十位にしか見えまい。俺は気はづかしくたまらなかつた。
見ると書生は誰も来て居ない。「どうしたんだ」ときくと、愛子は、
「私一人ぢやいけませんか。」
かう云つて嫣然《につ》とした。そして、
「自働車が来てゐます。」と云つて出口の方を目で指した。
俺は愛子と二人で自働車にのつた。車は滑《なめらか》に、音も立てず、道路の人を左右によけつつすべるやうに走る。愛子が身じろぐごとにさやさやと衣《きぬ》ずれがして、香料の薫りが快く俺の官能をそそる。俺はすつかりいい気もちになつてしまつた。
こんなにされてしまつて俺は今はただ肉体に生きてゐる丈だ。俺はもう畜生道に陥ちてしまつたのであらう。さうして俺は生活費を得んが為に、この疲れた身体を働かせて居るのにすぎない。大家とか先輩とか云ふことは、俺の様な落伍者を葬る誄詞《るゐし》なんだ。俺はそんなことはどうでもいい。俺は愛子に抱かれて死ぬんだ。死んだら愛子はどうなるであらう。そんな事はちつとも考へることなしに、俺は心安く死ぬんだ。
[#地から1字上げ](大正元・八・一四稿/「スバル」四巻九号大正元・九/『畜生道』所収)
底本:「定本 平出修集」春秋社
1965(昭和40)年6月15日発行
※底本は、著者によるルビをカタカナで、編者によるルビをひらがなで表示してありますが、このファイルでは、編者によるルビは略し、著者によるルビをひらがなに改めて入力しました。
※作品末の執筆時期、初出、初収録本などに関する情報は、底本では、「/」にあたる箇所で改行された3行を、丸括弧で挟んで組んであります。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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