高く山腹に聳えて居る。清光園と云つて浴客の爲に作られた丘上の遊園地の一隅に、小さな空家があつて、亨一はその家《うち》を借りて移り住んだ。
 五月になつた。太陽の熱が南の縁に白くさす日がつづいた。若葉はいい薫の風を生んだ。畑には麥の緑と菜の花の黄色が敷かれた。清澄な山氣を吸ひ、溢るる浴泉をあびて、筆硯を新にした亨一はすつかり落着いてしまつた。平安閑適の生活が形成されそうにも思はれて來た。土色の頬には光澤が出て來て、かすれた聲にも凛《りん》とした響が加はつて來た。かうして一年も二年もくらして居られたら、そしてすず子がもすこし自分の今の氣分に調子を合せてくれたら、本當に讀書人となつてしまふことが出來るかもしれない。亨一はかう思ふごとにすず子に教訓した。もつと落着いてくれませんかと。けれどもすず子のひねくれた感情は容易に順正に復さなかつた。此《この》隱れ家にあてて多くの同志からの通信がくる。すず子はその名宛が誰れであらうともみんな自ら開封した。亨一には自分で讀んで聞かせる位にして居た。返事は大抵自分で書く。亨一は著述に忙しいからでもあるが、すず子はまた成るべく社會の人の音信が聞きたかつたのであ
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