化を待つことであつた。かうして居るうちにも、女は東京へ行くことをもうよしてしまひましたと云ふであらうとも思つた。もしさう云つて身を投げ伏せて來たら、兩手で緊《しつ》かり女を抱いてやらうとも思つた。女はとうとう仕度をしてしまつた。待つた詞《ことば》が女の口からもれさうにもない。かうなる以上は自分から進んで引き止めなければ、女は此儘行つてしまふことは確である。此確な未來が亨一の目の前に來てぴたりと止まつた。亨一はそれを拂ひのける勇氣もなくなつて居た。
「私、一寸|母屋《おもや》へ挨拶に行つて來ますわ。」
 と女が立つたとき、
「あつ」と男は呼んだ。
「何か御用。」女は男の方へよらうとした。
「跡でいい。」男は投げるやうに云つて、ごろりと横になつた。
 下の普請小屋《ふしんごや》から木を叩くやうな音が二三度つづいて聞えて來て、またやんだ。空はどうやら曇つてるらしい。
 やがて女は歸つて來た。跡からお上《かみ》さんもついて來た。
「奥樣がお歸りになつたら、旦那樣はおさびしいでせうになあ。」とお上さんは縁端に腰をかけ乍ら云つた。
「どうぞねえ。お上さんお願ひしますよ。私も病氣の工合さへよければ、すぐもどつてきますからね。」
「え、え、私でできますことはなんでもしますから。」とお上さんはきさくに云つて、
「それでは車を呼んで來ませう。」と草履《ざうり》をぱたぱたさせて出て行つた。
「貴方、彌々《いよ/\》お別れですわ。」と女はしみじみした調子で云つた。
「……。」男は答が喉につかへて出ないのであつた。そしてまじまじと女の樣子を見つめて、その冷靜な態度に比して自分の見苦しさを恥かしいと思つた。
「御無理をなさらないやうにねえ。」女はまだものを云ふ事が出來た。
「私よりも貴方の事だ。生は尊《たつと》いものですよ。」
 亨一はやつとこれ丈を云つた。
「有難うございます。私は私で精進しますから。」
「私は今は、云ふ事が澤山ありすぎて、却《かへ》つて云はれません。何れ手紙で云ひます。あとからすぐ。」
「いいえ、いけません。手紙はよこして下さいませんやうに願ひます、」
「それはあんまり冷酷でせう。」
「決して、そんな譯ではないのです。私、貴方の手紙を見たら、その手紙でまた氣が狂ひます。此上私は苦悶を重ねたくはないのですから。」
「さうですか。ぢや手紙も書きますまい。」男は此|詞《ことば》の次に「もう一度考へ直して下さい」と云はうと思つたが、この場合それが如何にも意久地《いくぢ》がないやうにも思はれたので、口をつぐんでしまつた。
 表に人のくるけはひがして、がたりと轅棒《かぢぼう》の下りた音がした。
「車が來ました。」かう云つた女の聲は重いものに壓《お》し潰《つぶ》されたやうな聲であつた。
[#地から1字上げ](大正元年十月「昴」)



底本:「現代日本文學全集84 明治小説集」筑摩書房
   1957(昭和32)年7月25日発行
入力:小林徹
校正:かとうかおり
1998年7月25日公開
2003年5月20日修正
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