つた一日一夜を通してすず子の考へたことは、之れとは全く反對の趣意であつた。すず子は自分の爲すべき目的と、自分の愛する亨一との并存《へいそん》がどうしても望み得られないと思つた。どれか一つを抛《なげう》たう。かうも考へた。それがとうとう決斷の出來ないのであつた。どれか一つを抛つことが出來なかつたら二つとも抛つてしまはう。こんどはその方をのみ考へた。そして自分が居なくなつた後の男の身の上を考へた。あの人は學者だ。あの人の行くべき道は今僅ながら拓《ひら》けて來た。私と云ふものが傍に居るから、友人も同志もあの人に離れて居るけれど、獨りになつてしまへば、誤解もとけ、嘲笑もきえる。あの人がもつて居る理性や聰明や智識も復活して來よう。平安閑適の一生があの人の今後に續くであらう。あの人は今私と一しよに殺すべき人でない。理想の人に實行を強ふべきものでない。私が一切を抛つて先づ此處を去る。これがあの人の爲には最も善良な方法である。けれども別れた後の自分はどうなるのであらう。幾ばくもない餘生ではあらうが、その間でも、寂しい、眞暗な時間がどれほど續くかはしれないが、自分は果してそれに堪へ得るであらうか。堪へ得ぬときはどうしよう。死ぬ。さうだそれより外はない。私は死んでもあの人は助かる。私はどうしてもあの人を助けなければならない。ここまで纒めてすず子はほつとした。亨一が歸つて來たら之に基いた相談をしようと決心をして居つた。しかし之を云ひ出すには餘程の注意がいると思つた。
はしなく男の口からその機會が生れて來た。女は昂《たかぶ》つた男の言出しを手《た》ぐつて自分の本心を打明けようとも思つたが、それが果していいか惡いか一寸分らなくなつた。で、先づかう云つた。
「私は貴方とも計畫とも別れてしまふんです。」
男は叱るやうに云つた。
「貴方まで私を疑つてる。貴方が計畫と別れる。馬鹿なことだ。誰が信ずるものか。」
「本當です。本當に私は抛擲《はうてき》しました。」
「ぢやどうなるんです。」
「私、勞役に行きます。それから逃亡します。」
「串戲《じようだん》はよして貰はう。私は本氣になつてるんだ。」
「決して串戲ではありません。私の最後の斷案です。私、本統に獨り身になつて、十七八の頃のやうな心になつて、初めつから考へ直して見たいと思ひます。貴方が戀しくつてたまらなくなれば又歸つて來るかもしれません。その辛抱が一日つづくか、三日つづくか。まあやらせて見て下さいな。私が居なくなつて、貴方のお心もどうなりますか、それも私は見たいと思ひます。」
「ぢや貴方は全く計畫を抛つたのですか。」
「ええ。爲方《しかた》がありません。私は貴方を助けなきやなりませんもの。これで私の心が分るでせう。之からまだ段々分つて來ます。さうしたら貴方は、かはいさうだと思つて下さるでせう。ねえ。」
泣くのではない、泣くのではない。泣けば決心が鈍《にぶ》ると、女は一生懸命に堪《こら》へて居たが、こみ上げて來る悲痛の涙は、もう胸一杯になつて居た。女はそれをまぎらす爲に、ついと立つて縁端へ出た。
目の下の百姓家からはいくすぢとなく煙があがつてゐる。山の裾から部落の森の間をうねうねして谷川が流れてゐる。そのこちらの方の岸にそつた街道の中程の一軒家から母親らしい女がつとあらはれて、大きく手招ぎをした。何かが鳴つて居ると云ふ姿であつた。その貌《かほ》の向いた方の少し先の畑で、子供が一人|踞《しやが》んで居たがやがて女の方へ走り出した。夕日はもう裏手の山へかくれて居た。向の山は頂が少しあかるいばかり、全體が黒ずんで來た。
かうときめたことに向つては、わき目もふらず直進するのがすず子の持前であつた。殊に此度のことは一層急いで決行せねばならないのであつた。少しでも心にゆるみが來れば一切が跡もどりになるかもしれない。手まはりの小道具の始末をしてゐる間にも、折々弱い心が意識の閾《しきゐ》へあらはれて來るのであつた。それを押し殺してすず子はあくる日の朝までに、すつかり仕度をしてしまつた。手近に置くべきもの丈を入れた信玄袋《しんげんぶくろ》は自分で持つて行く。行李はあとから落着いた先へ送つて貰ふことにした。
「もうすつかりになりました。」長火鉢の前に坐つてすず子は獨語《ひとりごと》のやうに云つた。いかにもがつかりしたやうな風も見えた。
亨一は昨夜《ゆうべ》からいらいらし通しで居た。深更《よふけ》になつてからも、容易にねむれなかつた。やつとうとうとしたと思つたころには、もう夜は明け放れて居た。起き上つては見たが何だか人心地がしない。身體中が輕くしびれるやうな感じもする。之《こ》れつきりで女を手放してしまつて、それからどうなることであらうと云ふことは、いくら考へても考へても判斷がつかない。たつた一つの希望は女の心の變
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