もの。」
「そんなこと……。」男の云はうとするのを今度は女が遮つた。
「まあきいて下さい。私度々貴方に叱られましたわねえ。落着かないつて。私もどうにかして平和が得たいと思つて、いろいろ反省もしたんですけど、何だか世間が私をぢつとさせて置かないやうで、どう云つたらいいでせう。私の身體ぢゆうに油を注いで、それに火をつけて、その火を風で煽る如《やう》に、私は苦しくつて苦しくつて、騒がずに居られないやうな、折々氣が狂ふのかと思ふやうな心持がして來ますの。私ねえ。貴方のお傍《そば》に居ないのであつたなら、疾《と》うにどうにかなつて居ましたのでせうよ。」
「貴方はまた亢奮しましたね。いけません。いけません。」男は女の膝から自分の手をもぎとる樣にして引いた。
「いいえ。大丈夫です。今日は私はしつかりして居ます。私が勞役に行くと云ふことも、畢竟《ひつきやう》は貴方の御意思通りに從はうと云ふにすぎません。なぜとおつしやるんですか。私は勞役に服して、そこに平和を發見して來ようと思つてるんですもの。あすこは別世界でせう。全く世間とは沒交渉でせう。今日のことは今日のことで、明日のことは明日と云つたやうに、體だけ動かして居れば、時間が過ぎて行く處です。自由、自由つてどんなに絶叫して居ても、到底與へられない自由ですもの、いつそ極端な不自由の裡に身を置いてしまへば、却つて自由が得られるかもしれません。」
 亨一は此話の間に屡々|喙《くちばし》を挿《は》さまうとしたがやつと女の詞の句切れを見出した。
「馬鹿な、空想にも程がある。貴方だつてあの中の空氣を吸つたことがある人ぢやないか。あの小さい小ぜりあひ、いがみあひ、絶望が生んだ蠻性。あれを貴方はどう解釋してるのです。」
「私にはまだ大きな理由があります。蕪木のことがその一つ。」女は男の體にひたと身をよせた。
「蕪木が私達を呪つて居ます。私が貴方の傍に居ることは、貴方の身體にも危險です。私があちらへ行つたら、ちつとは蕪木の憤激がやはらぐでせう。それから私は貴方の教訓に從ひます爲に、三阪さん、多田さんとも文通を絶つ必要があります。官憲が丁度よく私と外界とを遮斷してくれますから、私に對するあらゆる讒謗《ざんばう》も、呪詛《じゆそ》もなくなつてしまひませう。その代り私が歸つて來ましたら……。」
 女は今日に限つて涙が出ない。之《こ》れ丈《だけ》の事を云ひ盡
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