計画
平出修

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)亨一《かういち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)段々|昂《たかぶ》つて

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「「饂」の「食へん」に代えて「酉」」、第3水準1−92−88]
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「昨日大川君から来たうちから、例の者を送つてやつて下さい。」亨一《かういち》は何の気なしに女に云つた。畳に頬杖《ほほづえ》して、謄写版の小冊子に読み入つて居たすず子は、顔をあげて男の方を見た。云ひかけられた詞の意味がすぐに了解しにくかつた。
「静岡へですよ。」男は重ねて云つた。女はこの二度目の詞《ことば》の出ないうちに、男が何を云ふのであるかを会得して居た。「さうですか。」と云はうとしたが、男の詞の方が幾十秒時間か早かつたので、恰《あたか》も自分の云はうとした上を、男が押しかぶせて来たやうな心持に聞取れた。それ丈け男の詞がいかつく女の耳に響いた。不愉快さが一時に心頭に上つて来た。
「ああ、それは私の為事《しごと》の一つでしたわねえ。貴方に吩付《いひつ》けられた。」女は居住まひを直して男の真向《まむき》になつた。
「そして残酷な……。」と云ひ足して女は微《かすか》に笑つた。頬のあたりにいくらか血の気が上つて、笑つたあとの眼の中には暗い影が漂つて居る。
「どうしたと云ふのです。」亨一は著述の筆を措いて女の詞を遮つた。
「静岡へ送金することは、私の為事の一つでしたわねえ。貴方の先《せん》の奥様の小夜子さんへ手当《てあて》を差上げるのが。」
「それが残酷な為事だと云ふんですか。」
「さうぢやないでせうか。」
「これは意外だ。私は貴方に強制はしなかつたでせう。」
「ええ。けれど結果は一つですもの。」
 亨一は女の感情が段々|昂《たかぶ》つて来るのを見《み》た。云へば云ふ程激昂の度が加はるであらうと思つたから、何も云はずに女の様子をただ見つめて居た。もう女は泣いて居るのであつた。
 亨一と小夜子との間は二年前にきれてしまつたのである。趣味、感情、理想、それから亨一の主義と小夜子とは全くかけはなれたものであつた。殊に外囲からの干渉は、二人が育てた九年間の愛情をも虐殺してしまつた。小夜子は別れて静岡の姉の家に身をよせたが、亨一は之に対して生活費を為送《しおく》る義務を負つて居た。毎月|為替《かはせ》にして郵送するのがすず子の為事の一つであつた。亨一が一切の家政をすず子に任せたとき、すず子はこの為事を快く引きうけた。それから一年に近い間、この小さい為事は滑《なめらか》に為遂《しと》げられて来たのだが、今日はすず子に堪へられない悪感を与へるのであつた。
 しばらくしてすず子は泣声をやめた。けれども苛立《いらだ》つ神経は鎮まらなかつた。
「離縁した女に貴方がどうして義務を負つてるんですか。」すず子は声をふるはして云つた。
「そんなことを云つたつてしやうがないぢやありませんか。」
「私ねえ。前々から疑問でしたの。貴方は小夜子さんとは全くの他人となつた方《かた》でせう。それだのに……。」
「そんな事を云つたつて、女の生活ぢやありませんか。どうするにも方法がつかないんです。」
「けれども理由のない救助は、救助する方《はう》もされる方もをかしいぢやありませんか。」
「理由がないつて、全然ないとも云はれませんよ。」享一の眉宇には迷惑さうな色がありありと見えた。女はそんなことには何等の頓着がない。
「『もと妻であつた』其が理由でせう。然し今は、『あかの他人』、さうでせう。」
「もう其事はよさうぢやありませんか。」
「ねえ、さうでせう、今は他人でせう。その他人の小夜子さんと貴方との間に何の連鎖も残つて居ない筈ですわ。戸籍と云ふ形式の上にでも、愛情と云ふ心霊の上にでも、ですけど生活費と云ふ経済上の関係丈けは保たれて行つてゐますのねえ。私に、私にもしも貴方が飽きてゐらしつたら、私もやつぱり、私も……。」女は込み上げる涙を押へて、
「私も只お側《そば》に居ると云ふ丈け、生命《いのち》を維《つな》がせて下さると云ふ丈け、なんにも、なあんにもないんですわねえ。」女はだんだんやけになつて、泣きくづれた。
 亨一も真顔になつた。こんなときは、いくら理合《りあひ》をつくして云つても何のききめがないものであると云ふことは明らかであるけれど、やつぱり黙つて居ることが出来なかつた。
「愛情がどうのかうのつて、私と貴方との間にそんなことを云ふのは、それは間違つてゐます。私は貴方をどうしました。私はいつ貴方に背《そむ》きました。小夜子は長年連れそつた女で、沢山苦労もかけたのですが、それでも私は棄ててしまひました。かうして別れ別れになつてる事は、恐らく小夜子の本心ではないでせうよ。それでも私は貴方と握手した。貴方は……あの蕪木《かぶらぎ》君。私の友人、私の同志である蕪木君の妻であつた。その貴方を私は愛したため、私が何程の犠牲を払つたか、貴方はよつく御承知でせう。あの当時蕪木君は××の監獄へ送られて居たのでした……。」男の声は嗄《しはが》れた中にも熱を帯びて居た。
「貴方は蕪木も承知の上で手を切つたと仰有《おつしや》つたが、蕪木の心中はどうだつたんでせうか。私には分からなかつたのです。貴方は私と連名で蕪木へ発信した事があつたね。蕪木に比すれば私の狭い自由もまだ大きな範囲で、燕木は手紙一本書くすら容易に許されない身でした。『汝、掠奪者よ』かう薄墨《うすずみ》にかいた端書《はがき》が来たとき、私は実に熱鉄をつかんだ様な心持がしました。私は友に背き同志を売つた、と思ふと私は昼夜寝る目も寝られなかつたんです。それでも私は貴方に背きはしなかつたではありませんか。それから私の窮乏|困蹶《こんけつ》が始まり、多数の同志は悉く脣を反《そ》らし、完膚なきまでに中傷しました。××に買収された××だとまで凌辱されました。生活に窮した為、蔵書や刀剣や、祖母のかたみの古金銀までも売り、母の住宅までも売らねばならぬ様になりました。それでも私は貴方に裏切りはしなかつたでせう。」
 亨一はふり落つる涙を払つて詞をつづけた。
「無拘束は私達の信条ですから、勿論恋愛も無拘束です。もし貴方の愛情が他へ移るのならそれも貴方の自由で私は何とも云はない積《つも》りです。妻と云ふ詞が従属的の意義をもつて居るとすれば、貴方は私の妻ではありません。貴方は貴方で、独立の女として、私は貴方の人格を尊重しませう。現《げん》に今日迄も尊重して来て居るつもりです。只私も貴方も戦闘に疲れた。そして二人とも軽からぬ病気を抱いてる。私が貴方に家庭の人と云つたのは、貴方に従属を強ひたのではなくて、貴方に休養を勧告した積りです。小夜子の問題なんぞ、私と貴方とに取つて大した問題ではないぢやありませんか。それよりも、私達は生きなけりやなりますまい。健全に、活々《いきいき》した生命を養はなきやなりますまい。」云ひ来つて亨一はやさしく詞を和らげた。
「ねえ、もういいでせう。神経が起きると又いけないから。」
 すず子は男の一語一語を洩らさず聞きとつた。それが中程になつた頃「もうよして下さい」と云はうと思つて詞が出て来ぬのであつた。「もういいでせう。」と男が最後に云つたときは訳もなくただ悲しくなつてしまつた。

 世に容れられない思想に献身する為に、亨一は憲法が与ヘたすべての自由を奪はれた。十年奮闘して何物をも贏《か》[#「贏」は底本では「羸」]ち得なかつた。国家の基礎が動揺して、今にも、革命の惨禍が渦まくかの様に思つたことは、どうやら杞憂にすぎなかつたとも考へて見なければならなかつた。不満と不平とに胸をわくわくさせて居ながら、何にも云はずに立ち廻つて行く流俗が却つて幸福であることを今更らしく思つても見なければならなかつた。今の人は譲歩と云ふことの真意義を知らない。けれども姑息《こそく》の妥協は、政治、経済の上では勿論、学問の上にも屡々行はれて、それで大きな勃発もなしに流転《るてん》して行く。譲るべき途《と》であると云ふ徹底的見地からするのと、譲るのが自己の利益だと云ふ利己的立場からするのと、意味がちがつて居ても、結果が屡同一に帰着する。そして社会の組織は割合に堅い根柢を作つて進んで行く。こんな平凡な議論にすら耳を傾けなければならなかつた。十重二十重《とへはたへ》にも築き上げられた大鉄壁を目がけて鏃《やじり》のない矢をぶつつけるやうな、その矢が貫けないからと云つて気ばかりぢりぢりさせて居たことが、全く無意味に終つてしまつた。
 僅に残つた親友の大川をはじめ二三の人々は、亨一の将来を気づかひ、あの儘にしておけば彼は屹度終りを全くすることが出来なくなると云つて、其前途を危《あやぶ》んだ。それで誠実と熱心とを以て亨一に生活の転換を説き、ある方法によつてある程度の自由が亨一に与へられるやうに心配もした。東京に居ちやいけないと、諸友は頻りに隠栖《いんせい》を勧めた。煩雑と抵抗の刺激から逃れて温泉地へでも行けと云つた。之等《これら》の黙止すべからざる温情が亨一の荒《すさ》んだ心に霑《うるお》ひを与へた。三月の初めに東京を逃れて此地に来た。山間の温泉場ではあるが、東京から名古屋へかけての浴客を吸集して、旅館の甍《いらか》は高く山腹に聳えて居る。清光園と云つて浴客の為に作られた丘上の遊園地の一隅に、小さな空家《あきや》があつて、亨一はその家を借りて移り住んだ。
 五月になつた。太陽の熱が南の縁に白くさす日がつづいた。若葉はいい薫の風を生んだ。畑には麦の緑と菜の花の黄色が敷かれた。清澄な山気を吸ひ、溢るる浴泉をあびて、筆硯を新にした亨一はすつかり落着いてしまつた。平安閑適の生活が形成されさうにも思はれて来た。土色の頬には光沢が出て来て、かすれた声にも凛とした響が加はつて来た。かうして一年も二年もくらして居られたら、そしてすず子がもすこし自分の今の気分に調子を合せてくれたら、本当に読書人となつてしまふことが出来るかもしれない。亨一はかう思ふごとにすず子に教訓した。もつと落着いてくれませんかと。けれどもすず子のひねくれた感情は容易に順正に復さなかつた。此隠れ家にあてて多くの同志からの通信がくる。すず子はその名宛が誰れであらうともみんな自ら開封した。亨一には自分で読んで聞かせる位にして居た。返事は大抵自分で書く。亨一は著述に忙しいからでもあるが、すず子はまた成るべく社会の人の音信が聞きたかつたのである。中に二三の人からすず子にあてた極めて簡単な手紙が、すず子の心熱を煽《あふ》るらしかつた。時にはそれを亨一にも秘《かく》すことすらあつた。重大な予報が何であるか、亨一には略推測がついた。
 女の頬には段段やせが見えて来た。朝からぢつと欝《ふさ》ぎ込んで、半日位は口をきかない様なこともある。さう云ふ時に限つて、女の様子は一面にそはそはして居るのであつた。夜なども胸苦しさうに溜息をしたり、寝返りをしたりして、容易に寝付かれないらしい。こんな事が幾晩も幾晩もつづくことがあつた。ある晩亨一は昼の労作のつかれで宵の中《うち》からぐつすり寝入つた。そして夜中に目をさました。もう全くの深更であつた。そつと頭を上げて女の容子をうかがつた。すやすやと女の微かな寝息がする。
「今夜はよくねむつてゐる。」亨一はかう思つて枕許のマツチをすつて女の傍へ火をかざした。女の寝姿が明るく男の目にうつつた。きつと結んだ口元には不穏の表情がある。泣き乍ら寝入つたのではあるまいかとも思はれる顔付である。火がきえると室は再びもとの暗に戻つたが、今見た女の寝顔がはつきりういて見える。亨一は起き上つてランプに火をつけた。女の頭の傍に拡げたままの手帳が一冊はふられてあるのが目に入つた。亨一は手をのばしてそれを取り上げた。
「犠牲は最高の道徳でない。けれども犠牲は最美の行為である。」女は書き出しにかう書いてゐる。
「死は人間の解体である。
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