断の出来ないのであつた。どれか一つを抛つことが出来なかつたら二つとも抛つてしまはう。こんどはその方をのみ考へた。そして自分が居なくなつた後の男の身の上を考へた。あの人は学者だ。あの人の行くべき道は今僅ながら拓《ひら》けて来た。私と云ふものが傍に居るから、友人も同志もあの人に離れて居るけれど、独りになつてしまへば、誤解もとけ、嘲笑もきえる。あの人がもつて居る理性や聡明や智識も復活して来よう。平安閑適の一生があの人の今後に続くであらう。あの人は今私と一しよに殺すべき人でない。理想の人に実行を強ふべきものでない。私が一切を抛つて先づ此処を去る。これがあの人の為には最も善良な方法である。けれども別れた後の自分はどうなるのであらう。幾ばくもない余生ではあらうが、その間でも、寂しい、真暗な時間がどれほど続くかはしれないが、自分は果してそれに堪へ得るであらうか。堪へ得ぬときはどうしよう。死ぬ。さうだそれより外はない。私は死んでもあの人は助かる。私はどうしてもあの人を助けなければならない。ここまで纏めてすず子はほつとした。亨一が帰つて来たら之に基いた相談をしようと決心をして居つた。しかし之を云ひ出すには余程の注意がいると思つた。
はしなく男の口からその機会が生れて来た。女は昂つた男の言出しを手《た》ぐつて自分の本心を打明けようとも思つたが、それが果していいか悪いか一寸分らなくなつた。で、先づかう云つた。
「私は貴方とも計画とも別れてしまふんです。」
男は叱るやうに云つた。
「貴方まで私を疑つてる。貴方が計画と別れる。馬鹿なことだ。誰が信ずるものか。」
「本当です。本当に私は抛擲《はうてき》しました。」
「ぢやどうなるんです。」
「私、労役に行きます。それから逃亡します。」
「串戯《じやうだん》はよして貰はう。私は本気になつてるんだ。」
「決して串戯ではありません。私の最後の断案です。私、本統に独り身になつて、十七八の頃のやうな心になつて、初めつから考へ直して見たいと思ひます。貴方が恋しくつてたまらなくなれば又帰つて来るかもしれません。その辛抱が一日つづくか、三日つづくか。まあやらせて見て下さいな。私が居なくなつて、貴方のお心もどうなりますか、それも私は見たいと思ひます。」
「ぢや貴方は全く計画を抛つたのですか。」
「ええ。為方《しかた》がありません。私は貴方を助けなきやなりませんもの。これで私の心が分るでせう。之からまだ段段分つて来ます。さうしたら貴方は、かはいさうだと思つて下さるでせう。ねえ。」
泣くのではない、泣くのではない。泣けば決心が鈍ると、女は一生懸命に堪へて居たが、こみ上げて来る悲痛の涙は、もう胸一杯になつて居た。女はそれをまぎらす為に、ついと立つて縁端へ出た。
目の下の百姓家からはいくすぢとなく煙があがつてゐる。山の裾から部落の森の間をうねうねして谷川が流れてゐる。そのこちらの方の岸にそつた街道の中程の一軒家から母親らしい女がつとあらはれて、大きく手招ぎをした。何かが鳴つて居ると云ふ姿であつた。その貌《かほ》の向いた方の少し先の畑で、子供が一人|踞《しやが》んで居たがやがて女の方へ走り出した。夕日はもう裏手の山へかくれて居た。向の山は頂が少しあかるいばかり、全体が黒ずんで来た。
かうときめたことに向つて、わき目もふらず直進するのがすず子の持前であつた。殊に此度のことは一層急いで決行せねばならないのであつた。少しでも心にゆるみが来れば一切が跡もどりになるかもしれない。手まはりの小道具の始末をしてゐる間にも、折折弱い心が意識の閾《しきみ》へあらはれて来るのであつた。それを押し殺してすず子はあくる日の朝までに、すつかり仕度をしてしまつた。手近に置くべきもの丈を入れた信玄袋《しんげんぶくろ》は自分で持つて行く。行李《かうり》はあとから落着いた先へ送つて貰ふことにした。
「もうすつかりになりました。」長火鉢の前に坐つてすず子は独語《ひとりごと》のやうに云つた。いかにもがつかりしたやうな風も見えた。
亨一は昨夜《ゆうべ》からいらいらし通《どほ》しで居た。深更《よふけ》になつてからも、容易にねむれなかつた。やつとうとうとしたと思つたころには、もう夜は明け放れて居た。起き上つては見たが何だか人心地がしない。身体中が軽くしびれるやうな感じもする。之れつきりで女を手放してしまつて、それからどうなることであらうと云ふことは、いくら考へても考へても判断がつかない。たつた一つの希望は女の心の変化を待つことであつた。かうして居るうちにも、女は東京へ行くことをもうよしてしまひましたと云ふであらうとも思つた。もしさう云つて身を投げ伏せて来たら、両手で緊《しつ》かり女を抱いてやらうとも思つた。女はたうとう仕度をしてしまつた。待つた詞が女の口からもれ
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