んもの。これで私の心が分るでせう。之からまだ段段分つて来ます。さうしたら貴方は、かはいさうだと思つて下さるでせう。ねえ。」
泣くのではない、泣くのではない。泣けば決心が鈍ると、女は一生懸命に堪へて居たが、こみ上げて来る悲痛の涙は、もう胸一杯になつて居た。女はそれをまぎらす為に、ついと立つて縁端へ出た。
目の下の百姓家からはいくすぢとなく煙があがつてゐる。山の裾から部落の森の間をうねうねして谷川が流れてゐる。そのこちらの方の岸にそつた街道の中程の一軒家から母親らしい女がつとあらはれて、大きく手招ぎをした。何かが鳴つて居ると云ふ姿であつた。その貌《かほ》の向いた方の少し先の畑で、子供が一人|踞《しやが》んで居たがやがて女の方へ走り出した。夕日はもう裏手の山へかくれて居た。向の山は頂が少しあかるいばかり、全体が黒ずんで来た。
かうときめたことに向つて、わき目もふらず直進するのがすず子の持前であつた。殊に此度のことは一層急いで決行せねばならないのであつた。少しでも心にゆるみが来れば一切が跡もどりになるかもしれない。手まはりの小道具の始末をしてゐる間にも、折折弱い心が意識の閾《しきみ》へあらはれて来るのであつた。それを押し殺してすず子はあくる日の朝までに、すつかり仕度をしてしまつた。手近に置くべきもの丈を入れた信玄袋《しんげんぶくろ》は自分で持つて行く。行李《かうり》はあとから落着いた先へ送つて貰ふことにした。
「もうすつかりになりました。」長火鉢の前に坐つてすず子は独語《ひとりごと》のやうに云つた。いかにもがつかりしたやうな風も見えた。
亨一は昨夜《ゆうべ》からいらいらし通《どほ》しで居た。深更《よふけ》になつてからも、容易にねむれなかつた。やつとうとうとしたと思つたころには、もう夜は明け放れて居た。起き上つては見たが何だか人心地がしない。身体中が軽くしびれるやうな感じもする。之れつきりで女を手放してしまつて、それからどうなることであらうと云ふことは、いくら考へても考へても判断がつかない。たつた一つの希望は女の心の変化を待つことであつた。かうして居るうちにも、女は東京へ行くことをもうよしてしまひましたと云ふであらうとも思つた。もしさう云つて身を投げ伏せて来たら、両手で緊《しつ》かり女を抱いてやらうとも思つた。女はたうとう仕度をしてしまつた。待つた詞が女の口からもれ
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