です」と云つた詞で満足した。
「取つたんですけれど…………。」と被告が云つたその「けれど…………」を全くないものにして「よし」と云つた。そして次の審問にかかつた。
「第一の事実………‥御大喪《ごたいさう》の絵はがきを窃取したことは間違ひないのだな。」と裁判長は問を改めた。
「はい。…………それは…………それは…………」
「それから懐中電燈も取つたんだな。」
「その…………その…………小包が切れて居まして…………。」
「取つたと云ふのだな。」
「はい。…………小包がきれて居まして、…………絵端書は…………。」
「お前は一体九月から集配人になつたんだな。」
「はい。見習を少ししまして。」
「そして本件の犯罪は九月十五日から十八日の間に犯して居る、」かう云つて裁判長は、ぐつと被告をねめつけた。
「お前は最初から泥棒をするつもりで雇はれたんだ。集配人になるとすぐぢやないか、本件の犯罪は。」
「いえさう云ふ訳ではありません。御大喪の絵はがきは…………。」
「もういいわ。証拠をよみきかせる。」[#底本は「」」を脱字]
裁判長の読んだ証拠書類と云ふのは、悉く被告の犯罪事実を確定するに必要なものであつた。否犯罪事実を確定するものの外何にもなかつた。被告の利益になることは勿論、被告の主観性を窺ふに足るべき材料は一つもなかつた。もとより何等同情を寄すべき記述などがあらう筈はなかつた。
半《なかば》目をとぢて怠屈《たいくつ》さうに椅子にもたれて居た検事は、立つて論告をした。被告の控訴は理由がないから棄却せられたしと云ふ丈のものであつた。
之れで此被告の審理は終つた。
此審理を粗雑だと云ふ人がもしあるならば、作者はかう云ふ人に云ひたいことがある。先づ此被告の窃取した財貨は合計三円程のものである。此三円の財貨を被告が不法に窃取したために、郵便局長が調べ、警察が調べ、検事局が調べ、一審裁判所が調べ、今又控訴裁判所が調べた。平均三十分宛としても二時間半の時間を奏任官以上の人の手間を費さしめて居る。それに書記から廷丁から、公判になれば立会検事も陪席判事も必要である。この被告は二ヶ月以上未決拘留になつて居て、一日十銭以上の給与を国家が支弁し、送迎には馬車もいる、看守もいる。被告が犯罪以来被告一人の為めに費した費用は百円を下るまい。しかも国家は労働者を一人失つて居る。これ丈の迷惑を誰が国家にかけたかと云へば、無論被告の不心得からである。斯の如きものに対して本来何を尊重し、何を保護してやらなければならないと云ふのか。作者は殆ど了解に苦しむものである。作者はかかる国家に対し、及びかかる裁判所に対し、並にこの愚なる仕事に対し、文明の有り難さを染染《しみじみ》感謝しなければならない。
「う、う。」裁判長なる判事は夢から醒めたやうにぽかりと目をひらいた。身体は仰向けになつて、両手を組合せてそれを枕の代りにして頭にしいて寝て居たのである。四時過ぎに役所から帰つて来て洋服の儘に机の前に坐つて居たが、妙に心気が苛立《いらだ》つのでいつのまにか倒れてしまつた。妻は姉が来て芝居へつれだしたとかで小女《こをんな》が独り留守をして居た。それが第一俺の気に入らなかつた始めであつた。彼はかう思ひ乍らも一度黙想を繰返した。
俺は妻の仕打が面白くなかつた。もう帰る時刻だと云ふのに、留守の間に帰つたら俺がどんなに物足らなさを感ずるであらうかと云ふこと位は、彼も十分了解して居る筈である。一体あれを誘《おび》き出した牛込の姉が悪いんだ。靴を脱いで戸をあけると、部屋の空気がいやに冷たい。と見ると室ぢゆうの品品――机から、本箱から床の唐獅子からがけろりかんとして、「貴方はどなたです」と云つたやうな、俺とは全くなじみのない品物のやうであつた。俺はやけに風呂敷包を抛《はふ》り出して机の前に坐つて見た。火鉢の炭までが乱雑にくべられてある。「俺をこんな不愉快な目に遇はせて…………」と、俺は躍気《やくき》となつて妻と姉を呪つた。小女が「お着替《きかへ》なさいまし」と云つて来たとき、俺は「誰が着替なんぞするものか」と心の中で叫んで、あれの帰る迄此儘に居て、「これ見ろ」と見せつけてやらう。さうしたら幾分腹|癒《い》せになるであらう。こんなことを考へて居るうちに、俺は段段|悒欝《いううつ》な気分になつて来た。何でもかでも気掛《きがかり》になる様な心持がしてならない。妻が留守だと云ふことの不満の外に、より大きな不満や不安が俺の身辺を取捲いてる様にも感ぜられる。俺は意思で生きてゐる。感情には捉はれたことがない。俺は嘗て物に狂うたことがないと高言が出来る。いつもかう云つては居たもののそれは全く虚勢である。俺はかなり喜怒哀楽の変化の激しい人間である。ただ俺は法律を学んだ為に、秩序とか規律とか云ふものの精神を聊か知得した。それが俺の外行《よそゆき》のときの冠《かんむり》とも衣服ともなつて、とにかく見かけだけは正確らしい姿にもなる。今夕《こんゆふ》はもう心の上に被《はを》つたものは脱ぎすて、素つ裸になつて、盛んに感情をのみ動かして居た。自分で動かさうと思つて動かしたのではないけれど、押石《おもし》をとれば接木《つぎき》の枝が刎《は》ねかへる様に、俺の感情も押石の理智が除かれたから、自《おのづか》ら刎ねかへつて、その恣《ほしいまま》な活動を起して来たのである。俺は又それを押へようとはしないで、むしろ其|迸《ほとばし》るが儘に任せて、ぢつと結局を見つめてやらうと思つた。
「何がそんなに不満なんだい。」俺は自ら心に問うて見た。こんなことを問うたつて誰が答へるものか。今俺の感情は甚だしく乱調になつて居るのだ。何をどうしようかと云ふやうなことの、筋道がどうして立て得られるものか。俺は滅茶苦茶に不満なんだ。今日逢つた奴等の顔から始めみんな面白くないんだ。
彼は起き上つた。机に頬杖して黙つて硝子越しに庭先を見入つた。八坪程しかない庭の片隅に小さい檜葉《ひば》に交つた一本の山茶花が、薄色に咲いていかにもはかなげな夕暗の寂しい気分を漂はせて居る。竹垣の直ぐ向《むかふ》は隣家の平家造の蔀《しとみ》のさびれた板にしきられて、眼界は極めて狭い不等辺三角形の隙から、遠い空中が覗《のぞ》かれる丈である。空には何の色もない。
鷲のやうな目をした頤鬚の濃い同僚の一人を思ひ出した。「行政官はやはり早いですなあ。」かう云つてあの男は俺を見てにやりと笑つた。俺はその時官報を披《ひらい》いて見て居つた。それはあの男が見ろと云つて俺に指示した叙任欄のある箇所であつた。高井某が某省の局長となつた。俺と同窓であつたが、俺とは競争相手にもならなかつた男であつた。同じく卒業して同じく司法部へはいつたがあの男は検事を志望して早く行政部へ転じてしまつた。追追重く用ゐられるやうになつて今度の政変で一躍して局長に昇進した。
「俺はかうして何年も何年も同じ所に燻《くすぶ》つて居るんだ。そして昇級の宛《あて》もない。」俺はあの男の身の上を羨むと云ふのではないけれど、名利を慕ふ俺の本能は顫ひを感じた。その鼻先へ出て「行政官は早いですなあ」と俺の顔と官報とを一目で覗き分けをしつつ云つたあいつの顔は「この冷笑と侮蔑と憐憫とを君に捧げよう」と云はんばかりであつた。
「まだ少しも片付《かたつ》かないのでね」と高井は、俺を喜んで迎へた。一昨日の朝俺は彼の昇進を祝ふ為に彼の官邸を訪問したのである。九時前であるのに応接間には地方の有志家らしい人が一人もう行つて居た。
「失敬ぢやが、どうぞ、君。」彼は自ら暖爐の火を見たり椅子を直したりして、俺を引張るやうにしながら、腰を据ゑさせた。三間《さんげん》に七間程もあらうかと思はれる可なり細長い部屋の廻りは本箱やら、飾棚やらが不秩序に押し並んで居て、一一記憶に残る程の品物ではないが、雑然としてあちこちに置かれてある置物や豹の皮や、時計や花瓶《くわへい》などが、彼の交際範囲を説明するに十分参考になるものであつた。彼は先客の人に対して議会解散の予想などを喋喋《てふてふ》述べて居たが、「こんなへつぽこ役人ではね、」と云つて湧き上る様に笑つた。その得意さうな笑声を俺がどんな邪《そね》み根性で聞いて居たかと云ふことは、彼の顧慮する所では勿論ないらしかつた。
「それがなんだ」判事は屹《きつ》となつた。拳を握つて机の上を叩いて見た。一つの鈍い音と一しよに不規則に積んであつた机の上の洋書が一冊、すべりおちた。クロースの表紙が少しはだけて中から一通の手紙が出た。昨日来た伯母からの手紙である。判事はそれを取上げた。
伯母は日本の女には珍らしい背の高い人で一見頑丈なつくりであるが、病気には極めて弱虫であつた。五十をこしてから空咳《からせき》がすると云つて寒い時節になると炬燵《こたつ》の中に跼《くぐま》つて居た。力のないそれで居て胴中から出る様な咳の音を聞くと、側に居るのが危険であると思はれるのである。同じ市中に居つても巣鴨と青山では往来がそれほど近くはなかつた。判事の方からは或は避けたいと思つたからでもあつたらしい。幼い時母に分れて此伯母の手に育てられたと云ふことは、それでも判事には幾分の親しみを残した。
「親類と云ふものは俺には手足纏ひだ。唯それだけだ。」伯母の病気が危篤だと云ふ代筆の手紙を手にして彼はかう呟《つぶや》いた。両肩が強《きつ》く骨立つて頸《くび》が益益長く見える、賤げな左の頬の黒子《ほくろ》と鍵の様に曲つた眼尻と、ひつくり返すやうな目付をして人を見る癖と、それから遇ひさへすれば口説《くどき》上手《じやうず》にくどくど云ふ口。小汚《こぎたな》い六畳の部屋で、せいせい云つて寝てゐる険相《けんさう》な顔付を考へると、何にもかも嫌になつてしまふ。
「それでも俺は金を送つた。行かなきやならんのではあるけれど、と云つて取り敢《あへ》ず、俺には大変な犠牲である弐拾円を今朝出したんだ。」
「之れ以上。…………。俺が顔を出した処で…………。俺は医者でない。病気は癒らない。金さへ見れば伯母は喜ぶんだ。」
判事はあの欝陶《うつたう》しい部屋で、あの気色《きしよく》悪い人間の死を訪《おとづ》れることを避ける為には、少くない金をも吝《をし》まなかつた。婚礼と新築祝ならいつでも行くんだけれど、俺は病人や葬式は真平だ。彼はいつもかう云ふことを云つては家内に笑はれてゐたものである。
「伯母はきつと喜ぶだらう。」判事は自分の手紙を手にして、床から起き直つて、押しいただいて居る病人を想像してにつこと笑つた。
「もし届かなかつたら。」ふいと判事は気がかりなことを思ひ出した。脊髄のあたりがすこし疼《うづ》くやうな感じがした。書留にしなかつたからと云ふことが殊更不安を感じさせるのであつた。「僅か拾銭を倹約した為に」と思ふと、急に忌忌《いまいま》しくもなつてくる。もし届かないとなると俺はどうしたらいいだらう。も一度送らなければならないのか。送らなければ俺の心は通じない。送つたんだが盗まれたと云つた処で、伯母から見れば送らなかつたと同じである。俺が送る丈けの志はあつたんだと云ふことだけは、伯母も、その他の親戚も認めてくれるかもしれないが、認めて貰つたつて、やはり伯母の手には何もはいらない。俺は俺だけのことをしたのであるけれどそれが全く空《くう》に帰したとなると、俺の行為は結果を産《う》まない行為である。いや結果は産んだ。泥棒をして盗ませると云ふ結果だけは。そしてそれは俺が予期しない意外なものであるのだ。
「其日は大雨で…………。」とあいつが云つたと、判事は今日の公判廷に於ける郵便窃盗を思ひ起した。あの阿呆面《あはうづら》の男がよくも郵便物を盗んだものだ。人間の意思と云ふものはすべての動作の基礎を作るんだ。道徳、法律、其他人間の行為を批判する法則は、みんな此意思の発展の上に組み立てられてあるのだ。その重要な意思の伝達の機関として、国家自ら郵便制度を作つて、事業の経営を自らして居る。通信の安固と秘密。之がなくなつて誰か日本を文明と云はうぞ。あいつは文明を破壊する兇徒《しれもの》だ。
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