乍ら又しても枝葉のことにのみ詞を費した。やう/\事実の押問答が済む頃になると、彼は次の様なことを陳述した。
彼の云ふ処によると彼の自白は全く真実でない。元来彼は無政府主義者でない。只真似をしたい許りに大言激語を放つて居たにすぎない。突然拘留の身となつて、激しい取調を受けた。もう裁判もなしに殺されることだと思つた。大阪から東京へ送られる途中で、彼は自殺をしようと思つた。大阪を立つた時にはもう日がくれて居た。街々には沢山の燈がともされて居た。梅田では三方四方から投げかける電燈や瓦斯の火が昼の様に明るかつた。二人の護送官に前後を擁せられ、彼は腰縄をさへうたれてとぼ/\と歩いて来た。住慣れた大阪の市街が全く知らぬ他国の都会の様に、彼には外々《よそよそ》しく感ぜられた。自分はいま土の中からでも湧いて出て、どこと云ふ宛もなくうろつき廻つてゐる世界の孤児のやうにも思はれる。無暗に心細さが身にしむのであつたが、それかと云つて、何が懐しいのか、何が残多いか、具体的に彼の心を引留めると云ふやうなものもなかつた。今大阪を離れては二度帰つて来られないかもしれないと思つても、それがどれほど悲しい情緒を呼び起すのでもない。ある程度以上の感情は悉く活動を休止したのではあるまいかとさへ思はれた。無意識に歩いて無意識に停車場にはいつた。宵の口であるから構内は右往左往に人が入乱れて、目まぐるしさに、彼の頭は掻乱され、何もかも忘れてしまひたい様な気がして片隅のベンチに彼は腰を下した。眼蓋をあけて居るのが大儀[#「大儀」は底本では「太儀」]にも思はれたが、人がどんな目付をして自分を見てゐるであらうかと云ふ邪《ひが》みが先になつて、彼は四辺《あたり》に注意を配ることを怠ることが出来なかつた。見よ、大勢の旅客の視線が悉く彼一人の左右に、蒐《あつま》つて居るではないか。中には、彼の側近く寄つて来て彼の顔を覗いて行く無遠慮ものさへあるではないか。「縄がついてるからなあ。」彼はかう思つて、強ひて肩を狭ばめて小さくなつた。
思へば奇《くす》しき成行であつた。彼は今、天人共に容《ゆる》さざるる、罪の犯人として遠く東京へ送られるのである。やがては死刑を宣告されて、絞首台の露ともなることであらう。之が彼の本意であつたか、どうであらう。彼は嘗て牢獄に行くことを一つの栄誉とも思ひ、勇士が戦場に赴くが如き勇しさを想見したこともあつた。しかしそれは新聞紙法違反位の軽罪で、二三ヶ月の拘禁を受ける位の程度を考へたからのことであつた。然るに極重悪の罪名を負《おは》せられ、夜を日に継ぐ厳しい訊問を続けられ、果ては死を以て罪を天下に謝さなければならないと云ふ、そんな大胆な覚悟は、彼が心中には未だ嘗て芽を吹かうともしたことはないのであつた。
彼が訊問に疲れ、棒立ちになつてゐる苦痛に堪ヘずして昏倒した後、考がこの不可測な起因、経過、終局に及んだとき、彼は逆上せんばかりに煩悶した。それは夜も深更であつた。昼からかけての心の顫《ふるへ》は漸く薄らいだが恐怖は却つてはつきりした知覚を以て彼を脅《おどか》した。彼が拘禁された留置場は三畳の独房であつた。戸口が一つあるきりで四方は天井の高い壁で囲つてある。息抜きの窓が奥の方の手も届かない処に切られてあるが、夜は戸をしめてしまふ。黴と湿気と挨の臭がごつちやになつた、異様に臭さい部屋である。六月の末でもあるから莚の様な蒲団もさほど苦にもならず、いろ/\の悲しみ、歎き、憤りを載せて、幾十百人の惨苦の夢を結ばせた、其の堅い蒲団の上に彼も亦其身を横へて居るのであるが、一度去つた眠りは容易に戻つては来なかつた。機械のうなりが耳の傍近くに迫つて聞えるやうな、押付けられた気分が段々に募つて来る。今はかうして手足を伸ばして寝て居るんだが、明日の朝になつたら俺はどうなるのであらう。手錠、腰縄、審問場、捜査官。そして激しい訊問。厳しい糾弾。長時間の起立。何たる恐しい事であらう。
一体俺は志士でも思想家でもないんだ。俺は一度だつて犠牲者となる覚悟をもつたことがない。革命と云ふやうなことは、俺とは関係のない外の勇しい人のする役目なんだ。遠くからそれを眺めて囃したてゝ居れば、それで俺の役目はすむ訳だ。俺は一体何を企てたと云ふのであらう。一時の勢にかられたときは、随分|飛放《とつぱな》れた言動もしないではなかつたが、それは一時の興である。興がさめたときは、俺は只の三村保三郎である。臆病な、気の弱い、箸にも棒にもかゝらぬやくざものだ。
俺の様なものを引張つて、志士らしく、思想家らしく取扱はうとする当局者の気が知れない。けれども当局者はどこまでも俺の犯罪を迫及する、俺は助からぬかも知れない。殺されることがもう予定されてるのかも知れない。こんな臭い部屋へ抛りこんで現責《うつつぜめ》とやらで俺
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