。どうしたのだ、銘々がかう思つてその声のする方に目を注いだ。感情の鋭い一人の若い弁護人は思はず腰を放して立ち上つた位であつた。けれども裁判長はちつとも顔色を動さなかつた。只ぎよろりと一睨した丈けであつた。
 此の泣いた被告は三村保三郎と云つて大阪の住人であつた。開廷後二日目であつた。一同が席について裁判長が書類の頁を繰り返して居るときであつた。突然彼は
「裁判長殿」かう叫んだ。その調子があまりに突拍子もないので満廷のものは、少しく可笑味を感じ乍らも、彼が何の為に裁判長を呼び掛けたかを次の問によつて明にしようと思はぬものはなかつた。それから又第一回公判以来、被告等はすべて、恭順謹慎の態を示して、誰あつて面を上げて法官席をまともに見ようとするものはないのであつた。犯すべからざる森厳の威に恐れかしこまつて居ると云ふ有様であつた。然るに今此被告は頓興に裁判長を呼びかけた。之にも亦一同一種の興を覚えた。裁判長は黙つて被告を見て、ちよいと顎を動かした。それは「何だか、云つて見ろ。」かう云ふ詞の意味を示したものであつた。
「わ、わたしは耳が遠いんですが。どうも聞えなくつて困りますから……」
 席を前の方へ移して貰ひたいと云ふのであつた。彼は自らの語るが如く耳が遠いのであつた。顔貌が何となく惘乎《ぼんやり》して、どこにか気の抜けた様な処が見えるのはその為であるらしい。早く父に分れて母の手一つに育つた。小商をして居る家の総領であつたが、大した学問のあるのではなく、思想上の研究なども行届いては無論居なかつた。奇矯の事を好み、自ら不平家らしく装つて、主義者の一人であるとして、多少の交友を得た。会合の席には常に法被腹掛の支度で行く。労働者だと云つて強がる為である相だ。「私が行つたとき五人程の人が集つて居ましたが、私の顔を見ると、みんなが黙つてしまひました。ええ、私はやつぱり法被をきて居ました。労働者の会合を料理屋で開くなんてけしからんと私は云つてやりました。けれど、そ、それは……実は私の癖なんです。どうもみんなが、私をのけ者にして居る様な様子ですから、私は独りで出てしまひました。」
 彼は自ら語る如く主義者間にも余り信用されて居ない人間であつた。或は其筋からの目付かもしれないなどと云ふ疑もかゝつて居た。彼は同志の人々の思はくを薄々知つて居ながらも、其跡先にくつついて放れなかつた。意気地のな
前へ 次へ
全23ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平出 修 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング