のは日出より日没迄であるが、漁撈、製造の場合は昼夜をとわず、凡て旦那、親方の命に従い何時にても労務に服すること。鰊乗網中は風浪の危険を犯し、昼夜の区別なく最大労務に服すべきこと。労務期間中、死亡し又は負傷して将来労働に堪えざるときは、慰藉料として漁場主より金一封を支給すること。その他等々。
 漁夫たちはだまってきいていた。みんな、そんなことはどうでもいい、と投げ出しているふうに見えた。風浪の危険を犯し、昼夜の区別なく、云々、と声高くよみあげられたときに、ほーっ、えれえこったな、と突然大きな声を出したものがただひとりあった。みんなはびっくりしてその男の方をふりかえってみた。が、話が終りに近づくに従って彼らはしきりに襖のほうを気にし出した。もう酒が出そうなもんだ、とおもうのである。
「わかったな?」
 と帳場はみんなの顔をずーっと見まわしながら言って、
「では、どうぞ。」と、旦那の前に小腰をかがめた。旦那は立上ってうやうやしく神前に額ずき、ぱんぱんと拍手《かしわで》をうって大漁の祈願をこめた。漁夫たちもそれにならった。
 待ちかねていた酒はやがて出るには出たが、一人あたり冷酒一合五勺にも満たなかった。それに心の底であてにしていた女が出て給仕をしないことがもの足らなかった。縁《ふち》の厚い大きな湯呑一杯で尽きてしまう冷酒を、ちょびりちょびりと舌の先でなめずりながら、むっとした顔を一層不満そうにふくらせて、互いに何か言いたげに目と目を合した。旦那の姿が消えると同時に、その不満ががやがやと騒々しい言葉になって吐き出された。「俺ア、ここの鰊場アはじめてよ。けちんぼうだのう。もう二度と来るこってねえだ。」とひとりが言った。「余市のな、〈サ漁場な、あすこへ行って見れで。着いた時と網おろしにゃ、なんぼでも呑ませっぞ。腰の抜けるぐれえ、呑ませっぞ。」と他の一人が言った。「この酒こ、水まぜてねえだか。」誰かがそういうとどっと笑い声が起った。監督と二人の親方に聞こえよがしに彼らは言うのだった。
 祝宴(?)がおわるとみんなは立上った。と、すぐそばにいた若い男が、源吉の横へずーっとよりそって来て、
「おい、行ぐべよ、な。」といって、にやにやと笑った。
「どこさよ。」
「どこさって……。わかっていべえに。おみきの匂いこかんだばしで、どうしてこれから去《い》んで寝られっけに。行ぐべな。」
「行ぐべ行ぐべ。」
 [#底本は改行天付き]がやがやとたちまち二三人が集まって来てその男を取りまいた。「こったら、雀の涙みてえ酒このんだばしで、どうして去《い》んで寝られっけえ。」
 五六人ずつかたまって外へ出た。暗かった。春といってもさすがにまだ寒く、凍てついた街道に氷のくずれる音がばりばりときこえた。はるか彼方の丘のあたりから、どん、どん、ど――ん……と高く低くうちならす太鼓の音が闇をつんざいてきこえてくる。町の氏神が鳴らす大漁祈願の太鼓だ。しばらく闇のなかに立って源吉は胸算用をしてみた、帳場から借りた金がまだ五円はある。二つの心が彼のなかでしばし争った。が、すぐに彼は、もう十間以上も先に行く男たちのうしろから追っかけて行った……。
 酔い痴れてそこに泊りこんでしまった仲間たちからはなれて、真夜なかに源吉はただひとり宿舎へ帰って来た。彼らの宿舎は旦那の家から少しはなれたところに立っていた。板のすきまからは遠慮なく吹雪の吹きこむようなバラック建だった。大広間の三分の一は炊事場で、残りの三分の二の板の間に筵を敷き、漁夫たちはその上にごろ寝をするのだった。
 誰一人として寝具をもっているものはなかった。どてら一枚を引っかけたきりで、仕事着のまま横になるのだ。流れて来て、偶然ここへ足をとどめることになった源吉にはそのどてらの持合せすらない。雑魚寝をしている仲間の間にわりこんで横になり、眠ろうとするのであったが、飲みつけない酒に頭はがんがんと鳴り、容易に寝つかれなかった。たったいまそこを出て来たばかりの小料理屋での記憶が――ぐったりとしなだれかかって来て、腕を首にまきつけたりする若い女の白くぼやけた顔や、やけにかん高い音を立てるこわれかかった蓄音機の音などが、遠い昔のことででもあるかのようにおもい出されて来た。悔恨と、むしゃくしゃした腹立ちと、同時に図太い棄鉢的な考えとが、ひとつになってぐるぐると胸のなかをかけめぐった。ふりかえって見る自分の姿はまた浅ましく癪にさわるばかりだった。どこまで落ちて行くのかと空おそろしいような気さえしてくる。――だがそれも、袋小路からの出口を求めて散々のたうちまわったあげくのはてなのだから、今更どうにも仕方がなかった。村での源吉はほんとうに身を粉にして働いて来たのだ。いいという畑作物はなんでも作ってみた。副業も一通りはやってみた。土木事業の出面《でめん》にも出た。冬には木樵もやった。しかも年中南瓜と芋ばかり食っていなければならないとすれば、――南瓜と芋ばかり食いながら、しかもなお毎年毎年小作料と税金の滞納に苦しめられなければならないとすれば、一体どうしたらいいんだ。出口はもうない。えたいの知れない不可抗力にずるずると引ずりこまれて行くばかりだ。いらだたしい思いがぐっと胸をつきあげて来て、糞でも食らえと彼はふたたび荒々しく肚のなかで叫んだ。
 ――とろとろと眠りかけたかとおもうと、ぞっとする寒さを襟もとに感じて源吉は目をさました。生つばがしきりに出て口のなかは灼けるようだった。
 ふと彼は身近になにかもののけはいを感した。高い天井に下っている石油ランプのうす暗い光のなかで、源吉はじっと目をすえて見た。すぐ彼の目の前にまるい大きな頭が横たわってい、金つぼ眼を大きく見ひらいて、またたきもせず彼の顔を見まもっているのだ。
「ああ、臭《くせ》え、臭え。」
 源吉が彼の存在に気づいたと知ったとき、その男は大きな掌で顔の前を払いながらいった。「安酒くらって来やがったな。」
 ずけずけと言う男の言葉ではあったが、不思議に怒れないものがそのなかにあった。源吉はむすっとしたままだまっていた。
「おめえ、なんにも着ていねえな。酔いざめに冷えてはわるかんべえに。これを着るべし。」
 そういって男は自分のどてらを脱いで源吉の上にかけてくれた。ことわるのも面倒くさく、彼はするがままに任せてだまっていた。寝ようとして三十分ほどそうしていたが、目がさえてもう寝つかれなかった。立上って、炊事場に行って柄杓からじかに水をのんだ。うす氷りを破ってのむ水は、灼け切った腹にいたいほどにしみた。彼はおもわずぶるぶると身ぶるいした。
 寝床にかえってみると、先の男は起上って鉈豆で一服やっていた。源吉も坐って一服のんだ。しきりに何か話しかけたいふうに見え、男は自分から山本と名のり、源吉の名を訊いた。源吉はなんとなくこの男に好意が持てた。彼は返事をし、問われないさきに、この町から三十里ほど東のN村のものだと自分から進んで名のった。山本は俺は上川のK村だといい、おれはそうだがお前も小作百姓か、ときいた。源吉はそうだと答えた。話をしているあいだに彼は気がついた。宵の旦那の家での安着祝の席上で、監督の話の最中に、ほほう、えれえこった、と途方もない大声を出したのはこの男だった。
 二人はそんなふうにしてだんだん打ちとけて行った。山本はねちねちした口調で、村での源吉のくらし向きの事なぞについて多く訊いた。それに答えながら源吉は少しずつ軽い気持になり、日頃の自分の重苦しい気持というものは、誰に向っても不平の訴えどころのない、捌け口のないというところからも来ている、ということに気がついた。そして日頃自分の胸にわだかまっているもやもやとしたものを、この男ならなんとか解きほぐしてくれるかも知れない、などとおもうのであった。彼は問われるままに鰊場かせぎに来るようになったいきさつについて語り、自分の村での生活について語った。――話をするうちにも、うすっぺらな移民案内一冊を後生大事にふところにいだいての闇の津軽海峡を渡った五年前の興奮が、今は苦い渣滓《おり》となって心の隅にこびりついているのを感ぜずにはいられなかった。
「おめえたちのとこア、年中、米のめしくえるべな。なんしろ上川だでな。北海道一土地が肥えてっのだから」。深いため息をついて源吉はそういい、しんから山本を羨んだ。
「ふん。」
 鼻のさきであしらい、人を小馬鹿にしたような調子で山本はいった。源吉はむっとした。その相手の心をよみとった山本は追っかけるようにするどい声でずばり、と言った。
「それでおめえ、自棄《やけ》酒くらってよっぱらってれば、その苦しさから脱けて出られっとでもいうのか。」
 はっと胸をつかれて源吉がおもわず息をのむと、山本はハハハと大声を立てて笑った。源吉はしかし、こんどは怒れなかった。かえって彼は、兄貴からでも叱りつけられたときのような、叱られながらそのものによりかかっているといった、頼もしさと力つよさとをかんじたのである。
「んだら、どうせばいいっていうんだ!」
 彼はせっぱつまったような、苦しそうな声で言った。山本はちょっとの間だまっていた。平べったい大きな鼻がまんなかに頑ばっている、幅の広い日に灼けた顔はいつか真剣な輝きにみちている。
「俺らから身ぐるみ剥ぎとって行ぐ奴からさかしまに剥ぎとってやるまでよ!」
「え。……どうするんだって。」
「地主よ、地主に目がつかんかい、地主に。」
「うん、……]
「おめえの今の小作、小作料なんぼだ。」
「二俵半ばしだ。畑代は四円に近けえ。」
「ふん、四俵[#底本は「俵」を「依」と誤植]も取れねえ田圃に二俵半か。それじゃなんぼかせいだとて米のめしの喰われる筈はなかんべえに。ぼやぼやしてっといんまに尻の毛まで抜かれっぞ。上川は土地ア後志なんどよりもそりゃ肥えているどもな。地主のえばっているとこアおんなじこった。その年のうちに飯米なくなって唐黍に芋まぜてくっとるぞな。んだからよ、みんなして、貧乏人同士みんなして一つに固まるのよ。そして俺たちの作ったものア、遊んでただまま[#底本は「ただまま」を「ただま」と誤植]くらってる地主に奪られねえ工夫するこった。そのほかに手はなかんべえに。――おめえの村に農民組合あっか?」
「農民組合?」
「なんだ、聞いたこともねえのか。もっとでかい眼玉《まなこだま》あいて世間のことを見べし。」
 強い力に押された形で源吉はだまりこんでしまった。なんだか出口につきあたったような気がぼんやりしてきた。真暗がりのなかをぐるぐると鼠まいしているうちに、その一角にぽっかりと穴があいて、一筋の明りを認めたときの気持だった。
 枕もとに近い波のおとのあいまあいまに、寺の梵鐘がひびきはじめた。人々の起きる時刻だ。漁夫たちは寝がえりをし、欠びをしはじめた。戸の隙間からはうっすらと朝の光りがさして来た。……

          三

 朝、赤毛布の前掛けに、大丸の屋号をそめ抜いた手ぬぐいの鉢巻姿で、漁夫たちは浜べに出そろった。まず除雪作業だ。廊下(漁舎のこと)を中心とする数十間の地の積雪は、屈強な男たちの担ぐ畚《もっこ》に運ばれて、またたく間に除かれてしまった。きれいに掃き清められた浜べには、蔵の中から持ち出された建網と枠網が拡げられた。前の年に漁がおわると、柿渋をほどこして格納しておいたものだが、この一年の間に鼠喰いがないか、縄ずれがないか、擦り切れがないか、雨蒸れで脆弱になった箇所はないか、と一々詳しく調べるのである。枠網は一名財産袋ともいう。建網でとらえた鰊を「汲み」あげて枠網に入れ、親舟につないで陸に曳航するものだけに、枠網に少しの破損箇所でもあれば折角つかんだ「財産」はそこからみんな逃げ出してしまう。それだけに枠網の検査は厳重にしなくてはならぬ、船頭は、「枠網履歴書」を手にし、新調の網をおろしてから今日にいたるまで網の歴史をしらべ、それによって修理箇所をさがして行く。「……コノ日、北風強ク時化トナル。鰊ヲ枠ヘ詰メ終リ小蒸気船ニ曳カシメ××港内ニ避難ス。ソノ際、障害物ノ摩擦ニ
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