吉日である。この日は旦那もわざわざ浜まで来て、仕込みを建てに行く漁夫たちの舟を見送った。網をつみこんだ親舟、それをとりまく小舟は威勢のいいかけ声と共にたちまち岸をはなれて行く。かねてから点検しておいた海上数百間の許可距離の位置に建網を投網するのだ。
 無事に投網を終え、――その夜は安着祝のときと同様、酒のふるまいがあった。
 仕込みを終えた翌日からは建込みの監視がはじまった。小舟にのった漁夫たちは、日のうちは投網した箇所をぐるぐるまわって、浮游した障害物が網にかかるのを注意する。鰊がくきるのは黄昏《たそがれ》から夜にかけてである。船頭と漁夫一同は、ようやく日も永くなって来た午後の四時前後には早くも夕飯を終えて磯舟に分乗し沖合に向って漕ぎいだす。建込みの場所にはかねて親舟が繋留してある。一同はその親舟にのりうつり、交代で小舟にのって、鰊の来游を監視するのであった。
 そうこうしているうちに、「初鰊」の報道がつたえられる。この町の帝国水産会の支部は、事務所の前の掲示板に墨くろぐろと初鰊の速報を書いてはり出した。町には見る見る活気がみなぎってくる。大漁を祈願する鐘や太鼓の音がひっきりなしにきこえる。鰊場かせぎの出面《でめん》たちは近処の農村から続々と入りこんでくる。――どこへ行っても話は今年の鰊漁の予想でもちきりだ。漁夫たちは期せずして勇み立った。
 初鰊の報道があってから一週間目に、大丸の建網にも最初の群来《くき》を見た。
 凪のいい日だった。日が山のかげに沈むと、とおく沖の彼方から夕闇がおし迫って、波のいろがみるみる変ってきた。漁撈長である船頭は、舟の上から食い入るようにいろの変ってきた海面を凝視している。目で見るというよりもからだじゅうの全神経で感じるのだ。
 見よ、今一瞬のうちに闇のなかにつつまれようとしている海面がそのとき異様なふくらみを見せてもりあがり、もりあがって来たではないか。――ひたひたひた、と鰊の大群はいま網のうえに乗ってきたのだ。
 一瞬、舟の上に仁王立ちになった[#「仁王立ちになった」は底本では「仁王立ち」と誤植]船頭は、儼然として言いはなった。
「起こせ!」
 起こせ、とは網を起こせということだ。声と共に固唾をのんで待ちかまえていた漁夫の手によって、網口がただちにぐいぐいと引きあげられる。嚢網の奥部に向ってそれは繰越し繰越したぐりよせられて行く。
前へ 次へ
全27ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島木 健作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング