に一年も寝ついた病人の肉体を感じたのである。まばらひげの伸びた顎《あご》を撫《な》でながら、彼はしみじみと自分の顔が見たいと思った。ガラス戸に這《は》い寄って映して見たが光るばかりで見えなかった。やがて尿意をもよおしたので静かに寝台をすべり下り、久しぶりに普通の便器に用を足したが、その便器のなかに澱《よど》んだ水かげに、彼ははじめてやつれた自分の顔を映して見ることができたのであった。
八日目の朝に看病夫が来て、彼の喀痰《かくたん》を採って行った。
それからさらに二日|経《た》った日の夕方、すでに夕飯を終えてからあわただしく病室の扉《とびら》が開かれ、先に立った看守が太田に外へ出ることを命じたのである。そして許された一切の持物を持って出ることをつけ加えた。夕飯後の外出ということはほとんどないことである。彼は不審そうにつっ立って看守の顔を見た。
「転房だ、急いで」
看守は簡単に言ったままずんずん先に立って歩いて行く。太田は編笠《あみがさ》を少しアミダにかぶってまだふらふらする足を踏みしめながらその後に従ったが、――そうしてやがて来てしまったここの一廓は、これはまたなんという陰気に静ま
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