よ、赤裏に。赤裏がまわって来た時に、かまうこたァない、恐れながらと直願をやるんですよ」この前科五犯のしたたか者の辛辣《しんらつ》な駁言《ばくげん》には一言もなかったが、なるほどその言葉どおりであった。頼んだ本はついに来なかった。そして二度目に逢《あ》った時、教誨師は忘れたもののごとくによそおい、こっちからいわれて始めて、ああ、と言い、何ぶん私の一存ばかりでも行かぬものですから、と平気で青い剃《そ》りあとを見せた顎を撫でまわすのであった。――読む本はなく、ある程度の健康は取り戻しても何らの手なぐさみも許されず、終日|茫然《ぼうぜん》として暗い監房内に、病める囚人たちは発狂の一歩手前を彷徨《ほうこう》するのである。
 健康な他の囚人たちのここの病人に対するさげすみは、役人のそれに輪をかけたものであった。きまった雑役夫はあっても何かと口実を作ってめったに寄りつきはしなかった。仕方なく掃除だけは病人のうち比較的健康な一人が外に出て掃《は》いたり拭《ふ》いたりするのである。衣替えなどを請求してもかつて満足なものを支給されたためしはなかった。囚衣から手拭《てぬぐ》いのはしに至るまで、もう他では使用に堪えなくなったものばかりを、択《よ》りに択って持ってくるのである。病人たちは、尻《しり》が裂けたり、袖のちぎれかけた柿色の囚衣を着てノロノロと歩いた。而してこういう差別は三度三度の食事にさえ見られた。味噌汁《みそしる》は食器の半分しかなく飯も思いなしか少なかった。病人は常に少ししか食えないものと考えるのは間ちがいだ。病人というものは食欲にムラがあり、極端に食わなかったり、極端に食ったりするものなのだ。一度肺病やみの一人が雑役夫をつかまえて不平を鳴らしたが、「何だと! 遊んでただまくらっていやがって生意気な野郎だ!」声とともに汁をすくう柄杓《ひしゃく》の柄がとんで頭を割られ、そのために若者は三日間ほど寝込んでしまい、それ以後は蔭でブツブツは言っても大きな声でいうものはなくなった。
 さげすまれ、そのさげすみが極端になっては言葉に出して言うでもなく、何を言ってもソッポを向き、時々ふふんと鼻でわらい、病人の眼の前で雑役夫と看病夫とが顔を見合わして思わせぶりにくすりと笑って見せたりする、それはいい加減に彼らの尖《とが》った神経をいらいらさせるしぐさであった。だが、憎まれ、さげすまれる、ということは考えようによってはまだ我慢の出来ることである。憎まれるという場合はもちろん、さげすまれるという場合でも、まだ彼は相手にとってはその心を牽《ひ》くに足りる一つの存在であるのだから。次第にその存在が人々にとって興味がなくなり、路傍の石のように忘れられ、相手にもされなくなるということは、生きている人間にとっては我慢のできないことであった。
 ここの世界で発行されている新聞が時々配られる。それにはいろいろ耳寄りなことが書いてある。所内には新しくラジオが据えつけられ、収容者に聞かせることになった、図書閲覧の範囲が拡大された、近いうちに、巡回活動写真が来る、等々。だがそれらはすべてこの一廓の人間にとっては全く無縁の事柄なのである。病人は寝ているのが仕事だ、悪いことをしてここへ来て、遊んで寝そべって、しかも毎日高い薬を呑ませてもらっているとは、何と冥利《みょうり》の尽きたことではないか、というのであった。――刑務所内の安全週間の無事に終った祝いとして、収容者全部に砂糖入りの団子が配られ、この隔離病舎にだけはどうしたものかそれが配られず、後で炊事担当も病舎の担当もここのことは「忘れて」いたのだ、と聞かされた時、とうとう欝結していたものが一人の若者の口から迸り出た。「なに、忘れていたって! ようし思い出させてやるぞ!」雑居三房にこの二た月寝っきりに寝ていたひょろひょろした肺病やみの若者がいきなりすっくと立ち上った。あっけに取られている同居人を尻目にかけて、病み衰えた手に拳《こぶし》を握ると、素手で片っぱしから窓ガラスをぶっこわし始めたのである。恐ろしい大きな音を立ててガラスの破片が飛び散った。後難を恐れた同居人の一人が制止しようとして後ろから組みつくと、苦もなくはねとばされてしまった。物音に驚いた看守と雑役夫とがかけつけてようやく組み伏せるまで、若者は狂気のように荒れ狂った。後ろ手に縛り上げられた静脈のふくれ上った拳にはガラスの破片が突き刺さって鮮血で染まっていた。若者はそのまま連れて行かれ、三日間をどこかで暮して帰って来た。病人だからといっても懲罰はまぬがれ得なかったのである。ただそれが幾分か軽かったぐらいのものであろう。青い顔をして帰って来、監房へ入るとすぐに寝台の端に手をささえて崩折《くずお》れたほどであったが、無口な若者はそれ以来ますます無口になり、力のないしかし厳《き
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