その声がまた、少しも変らない若々しさをもって思わざる三階の隅の方からなど聞えてくる時には、ひとりでに湧《わ》き上ってくる微笑をどうすることもできないのであった。だが、一とたび消えてついに二度とは聞かれない声もあった。その声は何処に拉《らつ》し去られたのであろうか。――朝夕の二度はこうして脈々たる感情がこの箱のような建物のあらゆる隅々に波うち、それが一つになってふくれ上った。

     2

 間もなく日が黄いろ味を帯びるようになり戸まどいした赤とんぼがよく監房内に入って来ることなどがあって、ようやく秋の近さが感ぜられるようになった。そういうある日の午後少し廻《まわ》ったころ、太田は張り終えた封筒を百枚ずつせっせと束にこしらえていた。
 彼の一日の仕上げ高、はぼ三千枚見当にはまだだいぶ開きがあった。残暑の激しい日光を全身に受けてせっせと手を運ばせていると、彼はにわかに右の胸部がこそばゆくなり、同時に何か一つのかたまりが胸先にこみあげてくるのを感じたのである。何気なく上体をおこすとたんに、そのかたまりはくるくると胸先をかけ巡り、次の瞬間には非常な勢いで口の中に迸り出て、満ち溢《あふ》れた余勢で積み重ねた封筒の上に吐き出されたのであった。
 血だ。
 ぼったりと大きな血塊が封筒のまん中に落ち、飛沫《ひまつ》がその周囲に霧のように飛んだ。それはほとんど咳入《せきい》ることもなく、満ち溢れたものが一つのはけ口を見出して流れ出たようにきわめて自然に吐き出された。だが次の瞬間には恐ろしい咳込みがつづけさまに来た。太田は夢中で側の洗面器に手をやりその中に面《かお》をつっこんだ。咳はとめどもなく続いた。そのたびごとに血は口に溢れ、洗面器に吐き出された。血は両方の鼻孔からもこんこんとして溢れ、そのために呼吸が妨げられるとそれが刺戟となってさらに激しく咳入るのであった。
 洗面器から顔をあげて喪心したようにその中をじっとのぞき込んだ時には、血はべっとりとその底を一面にうずめていた。溜《たま》った血の表面には小さな泡《あわ》がブツブツとできたりこわれたりしていた。一瞬間前までは、自分の生きた肉体を温かに流れていたこの液体を、太田は何か不思議な思いでしばらく見つめていた。彼は自分自身が割合に落ち着いていることを感じた。胸はしかし割れるかと思われるほどに動悸《どうき》を打っていた。顔色はおそ
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