かをにわかに思い出すことができないのであった。日を経るに従ってその顔は次第に彼の心にくっきりとした映像を灼《や》きつけ、眼をつぶってみると、業病のために醜くゆがんだその顔の線の一つ一つが鮮《あざ》やかに浮き上って来、今は一種の圧迫をもって心に迫ってくるのであった。――夜、太田は四、五人の男たちと一緒に一室に腰をおろしていた。それは大阪のどこか明るい街に並んだ、喫茶店《きっさてん》ででもあったろう。何かの集会の帰りででもあったろうか。人々は声高に語り、議論をし、而してその議論はいつ果てるとも見えないのであった。――太田はまた、四、五人の男たちと肩をならべてうす闇の迫る場末の街を歩いていた。悪臭を放つどぶ川がくろぐろと道の片側を流れている。彼らの目ざす工場の大煙突が、そのどぶ川の折れ曲るあたりに冷然とつっ立っているのだ。彼らはそれぞれ何枚かのビラをふところにしのばせていた。而して興奮をおさえて言葉少なに大股《おおまた》に歩いて行く。――今はもう全く切り離されてすでに久しいかつての社会生活のなかから、そのようないろいろの情景がふっと憶《おも》い出され、そうした情景のどこかにひょっこりとかの男の顔が出て来そうな気が太田にはするのである。鳥かげのように心をかすめて通る、これらの情景の一つを彼はしっかりとつかまえて離さなかった。それを中心にしてそれからそれへと彼は記憶の糸をたぐってみた。そこから男の顔の謎《なぞ》を解こうと焦《あせ》るのである。それはもつれた糸の玉をほぐすもどかしさにも似ていた。しかし病気の熱に犯された彼の頭脳は、執拗な思考の根気を持ち得ず、すぐに疲れはててしまうのであった。しつこく掴《つか》んでいた解決の糸口をもいつの間にか見失い、太田は仰向けになったままぐったりと疲れて、いつの間にかふかぶかとした眠りのなかに落ち込んでしまうのである。――真夜なかなどに彼はまたふっと眼をさますことがあった。目ざめてうす暗い電気の光りが眼に入る瞬間にはっと何事かに思い当った心持がするのだ。あるいは彼は夢を見ていたのかも知れない。今はもう名前も忘れかけている昔の同志の誰れ彼れの風貌が次々に思いいだされ、その中の一つがかの男のそれにぴったりとあてはまったと感ずるのであった。だがそれはほんの瞬間の心の動きにすぎなかったのであろう。やがて彼の心には何物も残ってはいないのだ。手の中に探り
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