いる牢獄のなかにあって、さらに隔離され全く忘れ去られている世界がここにあったのだ。何よりもまず何か特別な眼をもって見られ、特別な取扱いを受けているという感じが、新しくここへ連れ込まれた囚人の、彼ら特有の鋭どくなっている感覚にぴんとこたえるのであった。十分間おきぐらいにはきまって巡回するはずの役人もこの一廓にはほんのまれにしか姿を見せなかった。たとえ来てもその一端に立って、全体をぐるりと一と睨《にら》みすると、そそくさと急いで立ち去ってしまうのである。担当の看守はもう六十に手のとどくような老人で、日あたりのいい庭に椅子《いす》を持ち出し、半ばは眠っているのであろうか、半眼を見開いていつまでもじっとしていることが多かった。監房内にはだからどんな反則が行われつつあるか、それは想像するに難くはないのである。すべてこれらの取締り上の極端なルーズさというものは、だが、決して病人に対する寛大さから意識して自由を与えている、という性質のものではなく、それが彼らに対するさげすみと嫌悪《けんお》の情とからくる放任に過ぎないということは、ことごとにあたっての役人たちの言動に現われるのであった。用事があって報知機がおろされても、役人は三十分あるいは一時間の後でなければ姿を見せなかった。ようやく来たかと思えば、監房の一間も向うに立って用事を聞くのである。うむ、うむ、とうなずいてはいるが、しかしその用事が一回でこと足りたということはまずないといっていいのである。――よほど後のことではあるが、太田は教誨師《きょうかいし》を呼んで書籍の貸与方を願い出たことがあった。監房に備えつけてある書籍というものは、二、三冊の仏教書で、しかもそのいずれもが表紙も本文もちぎれた読むに堪えない程度のものであったから。教誨師が仔細《しさい》らしくうなずいて帰ったあとで、掃除夫《そうじふ》の仕事をここでやっている、同じ病人の三十番が太田に訊《き》くのであった。――「太田さん教誨師に何を頼みなすった?」「なに、本を貸してもらおうと思ってね」「そりゃ、あなた、無駄《むだ》なことをしなすったな。一年に一度、役に立たなくなった奴を払い下げてよこす外に、肺病やみに貸してくれる本なんかあるもんですか。第一、坊主なんかに頼んで何がしてもらえます? あんたも共産党じゃないか。頼むんなら赤裏[#「赤裏」に傍点](典獄のこと)に頼むんです
前へ
次へ
全40ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島木 健作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング