ゐるといふことであつた。――だが、さうした懸念はやがて無用になつた。太田の病氣はずつと重くなつたからである。
 粥も今はのどを通らなくなつて一週間を經たある日の午後、醫務の主任が來て突然太田の監房の扉をあけた。冷たい表情で無言のまゝ入つて來た二人の看病夫が、彼を助け起し、囚衣を脱がせて新らしい浴衣の袖を彼の手に通した。朦朧とした意識の底で、太田は本能的にその浴衣に故郷の老母のにほひをかいだのである。
 太田が用意された擔架の上に移されると、二人の看病夫はそれを擔いで病舍を出て行つた。肥つた醫務主任がうつむきかげんにその後からついて行く。向ふの病舍の庭がつきるあたりの門の側には、太田に執行停止の命令を傳へるためであらう、典獄補がこつちを向いて待つてゐるのが見える。――そして擔架でかつがれて行く太田が、心持首をあげて自分の今までゐた方角をぢつと見やつた時に、彼方の病室の窓の鐵格子につかまつて、半ば伸び上りかげんに自分を見送つてゐる岡田良造の、今はもう肉のたるんだ下ぶくれの顏を見たやうに思つたのであるが、やがて彼の意識は次第に痺れて行き、そのまゝ深い昏睡のなかに落ちこんで了つたのである……。
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