時言ひ出すべき言葉をも繰り返し考へてゐたのだが、さてその時の今となつては言ふべき言葉にもつまり、ひどい混亂を感じた。岡田は太田に答へて、白い齒を見せて微笑した。白い綺麗に揃つた齒並だけが昔のまゝで、それがかへつて不調和な感じを與へた。
「知つてますとも。妙な所で逢ひましたね。」穩やかに落着いた調子の聲であつた。それから彼は續けた。「ほんとうに暫くですね。僕はこゝへ來た翌日にもう君に氣がついてゐたんです。けれど遠慮してだまつてゐました。何しろ僕はこんな身體になつたのでね、君をおどろかせても惡いと思つたし……。」
太田は岡田のその言葉をきいて、さうかやつぱりさうだつたのか、岡田だつたのか、とほつとしたやうな氣持で思つた。彼自身の口からはつきりとさう名乘られるその瞬間までは、やはり何だか嘘のやうな氣がし、人間が違ふやうな氣がして、心のはるかの奧底では半信半疑でゐたのである。
「それで君はいつやられたんです。三・一五には無事だつた筈だが。」
「おなじ年の八月です。たつた半年足らず遲かつただけ。實に飽氣《あつけ》なかつたよ。」
絶えず微笑を含んで言つてゐるのだが、その調子には非常に明るいもの
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