へて見る心の餘裕を取り戻してゐなかつたのであらう。やがて落着きを充分に取り戻すと同時に、どんなみじめな思ひに心が打ち摧かれるであらうか、といふことが意識の奧ふかくかすかに豫想はされるのではあつたが。重湯と梅ぼしばかりで生きた七日ののち、彼は漸く靜かに半身を起して身體のあちらこちらをさすつて見て、この七日の間に一年も寢ついた病人の肉體を感じたのである。まばらひげの伸びた顎を撫でながら、彼はしみじみと自分の顏が見たいと思つた。ガラス戸に這ひ寄つて映して見たが光るばかりで見えなかつた。やがて尿意をもよほしたので靜かに寢臺をすべり下り、久しぶりに普通の便器に用を足したが、その便器のなかに澱んだ水かげに、彼ははじめてやつれた自分の顏を映して見る事ができたのであつた。
 八日目の朝に看病夫が來て、彼の喀痰を採つて行つた。
 それから更に二日經つた日の夕方、すでに夕飯を終へてからあわただしく病室の扉が開かれ、先に立つた看守が太田に外へ出ることを命じたのである。そして許された一切の持物を持つて出る事をつけ加へた。夕飯後の外出といふことは殆んどないことである。彼は不審さうにつゝ立つて看守の顏を見た。

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