少し脊のび加減にすると太田の監房から見る視野の中に入るので、彼は固唾を呑んでその樣子を眺めたのである。
 三人のうち二人は見なれない醫者で一人はこゝの監獄醫であつた。その二人のうちの年長者の方が、頭の上から足の先まで岡田の全身を凝つと見つめてゐる。岡田は何かいはれて身體の向きを變へた。太田の視線の方に彼が脊中を向けた時、太田は思はずあツと聲を立てるところであつた。首筋から肩、肩から脊中にかけて、紅色の大きな痣のやうな斑紋がぽつりぽつりと一面にできてゐるのだ。裸體になつて見ると色の白い彼の肌にそれは牡丹の花瓣のやうにパツと紅く浮き上つてゐる。
 醫者が何かいふと岡田は眼を閉じた。
「ほんたうのことをいはんけりやいかんよ。……わかるかね、わかるかね。」さういふやうな言葉を醫者は言つてゐるのだ。よく見ると、岡田は兩手を前に伸ばし、醫者は一本の毛筆を手にしてそれの穗先で、岡田の指先をしきりに撫でてゐるのであつた。感覺の有無を調べてゐるのであらう。わかるかね、と醫者に言はれると岡田はかすかに首を左右にふつた。いふまでもなく否定の答へである。醫者はそれから、力を入れないで、力を入れないで、といひながら、岡田の手足の急所々々を熱心に揉みはじめた。どうやら身體ぢうの淋巴腺をつかんで見てゐるものらしい。時々醫者が何かいふと、岡田はその度に首を輕く縱にふつたり横にふつたりする。
 ――さういふやうな事を凡そ半時もつゞけ、それから眼を診たり、口を開けさせてみたり、――身體ぢうを隈なく調べた上で三人の醫者は歸つて行つた。
 その後餘ほど經つてのち、同じやうに窓の上と下で最後に岡田と逢つた時、太田はこの時の診察について彼に訊いて見た。「今頃どうしたんです? 今まで誤診でもしてゐたんで診なほしに來たんぢやないのですか。」事實太田はさう思つてゐた。さう思ふことが、空頼みにすぎないやうな氣もするにはしたが。しかし岡田はその時の事を大して念頭にも止めてゐない樣子で答へた。「診なほすといふよりも、最後的斷定のための診察でせう……今までだつてわかるにはわかつてゐたんだが。あの二人は大阪近郊の癩療養所の醫者なんです。つまり專門家に診せたわけですね。鼻汁のなかに菌も出たらしい……この病氣は鼻汁のなかに一番多く菌があるんださうです。今度ですつかりきまつたわけで、死刑の宣告みないなものです。」
 ――其後、太田は岡田と話をする機會をつひに持たなかつた。

     8

 灰いろの一と色に塗りつぶされた、泣いても訴へても何の反響もない、澱んだ泥沼のやうなこの生活がかうしていつまで續くことであらうか。また年が一つ明けて春となり、やがてじめじめとした梅雨期になつた。――あちこちの病室には、床につきつきりの病人がめつきりふえて來た。毎年の事ながらそれは同じ一と棟に朝晩寢起きを共にする患者たちの心を暗くさせた。――五年の刑を四年までこゝでばかりつとめあげて來た朝鮮人の金が、ある雨あがりのかツと照りつけるやうな眞ツぴるまに突然發狂した。頭をいきなりガラス窓にぶつつけて血だらけになり、何かわけのわからぬことを金切聲にわめきながら荒れまはつた。細引が肉に食ひ入るほどに手首をしばり上げられ、ずた/\に引き裂かれた囚衣から露出した兩肩は骨ばつていた/\しく、どこかへ引きずられて行つたが、その夜から、この隔離病舍にほど近い狂人《きちがひ》監房からは、咽喉《のど》の裂けるかと思はれるまで絞りあげる男の叫び聲が聞えはじめたのである。それは金の聲であつた。哀號、々々、と叫び立てる聲がやがて、うおーツうおーツといふやうな聲に變つて行く。それは何かけだものの遠吠えにも似たものであつた。――さういふう夜、五位鷺がよく靜かに鳴きながら空を渡つた。月のいい晩には窓からその影が見えさへした。
 梅雨に入つてからの太田はずつと床につきつきりであつた。梅雨が上つて烈しい夏が來てからは、高熱が長くつゞいて、結核菌が血潮のなかに流れ込む音さへ聞えるやうな氣がした。それと同時に彼はよく下痢をするやうになつた。ちよつとした食物の不調和がすぐ腹にこたへた。その下痢が一週間と續き、半月と續き――そして一月に及んでもなほ止まらうとはしなかつた時に、彼は始めて、ただの胃腸の弱さではなく自分がすでに腸を犯されはじめてゐる事を自覺するやうになつたのである。診察に來た醫者は診《み》終ると、小首を傾けて默つて立去つた。
 その頃から太田は、自分を包む暗い死の影を感ずるやうになつた。寢臺の上に一寸立上つても貧血のために目の前がぼーツとかすむやうになると、彼はしばしば幻影に惱まされ始めた。剥げかゝつた漆喰の壁に向つて凝つと横臥してゐると、眼の前を小さな蟲のやうな影がとびちがふ。――その影の動くがまゝに眼を走らせてゐると、それが途方もない巨大
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