了つた。
「あの監房には本なんかありますか。」
「全然ないんですよ。」
「毎日どうしてるんです。」
「なに、毎日だまつて坐つてゐますよ。」そこで岡田は又白い齒を出して笑つた。「君は夜眠られないつて言つてゐるやうですが、病氣のせいもあらうが、もつと氣を樂に持つやうにしなければ。もつともこれは性質でなかなか思ふやうにはならないらしいが。」――太田が不眠症に惱んで、度々醫者に眠り藥を要求したりしてゐるのをいつの間にか知つてゐたのだらう、岡田はさういつて忠告した。「僕なんか、飯も食へる方だし、夜もよく眠りますよ。」
「少し考へすぎるんでせうね。」彼は續けて言つた。「そりや考へるなといつてもこゝではつきつめて物を考へ勝ちだが……、しかしこゝで考へた事にはどうもアテにならぬことが多いんです。何かふつと思ひついて、素晴らしい發見でもしたつもりでゐてもさて社會へ出て見るとペチヤンコですよ。こゝの世界は死んで居り、外の社會は生きてゐますからね。……こんな事は君に言ふまでもない事だが、これは僕が昔騷擾で一年くつた時に痛感した事だもんだから。」
丁度その時、擔當の老看守の戻つて來る氣はひを感じ、太田はさり氣なく窓の下を退きながら、肝腎な事を聞くのを忘れてゐたことに氣がついて訊ねたのであつた。
「そして、君は何年だつたんです。」
「七年。」
七年といふ言葉に驚愕しながら太田は監房へ歸つた。七年といふ刑は岡田が轉向を肯じなかつたこと、彼が敵の前に屈伏しなかつたことを物語つてゐる。彼の言葉によれば、控訴公判の始まる時にはもうレプロシイの診斷がほぼ確定的であつたといふのだ。だが、彼の公判廷における態度が、その病氣によつてどうにも變らなかつた事だけはたしかである。岡田との對話を一つ一つ思ひ出し、殊に眠れないやうでは駄目だ、といつた言葉や、最後の言葉の中なぞに、昔のまゝの彼を感じ、太田ははげしく興奮しその夜はなかなかに寢つかれないほどであつた。
その日から以後の太田は毎日の生活に生き生きとした張合を感じ、朝起きることがたのしみとなつた。岡田と一緒に同じこの棟の下に住むといふ事が彼に力強さを與へた。岡田は太田と逢つたその日以後も、依然物靜かで變つた樣子もなく、自分の方から積極的に接近しようとする態度をも別に示さうとはしなかつた。しかし運動時間には互ひに顏を見合せて、無量の感慨をこめて微笑を投げ合ふのであつた。ただ、岡田の今示してゐる落着きは決して喪心した人間の態度などでない事は明らかであり、むしろ底知れぬ人間の運命を見拔いてゐるかのやうな、不思議な落着きをさへ示してゐるのだが、――しかし、彼のかうした落着きの原因をなしてゐるところのものは一體なんであらうか? といふ點になると、彼に逢つて話した後にも、太田には全然わからないのであつた。恐らくそれは永久に祕められた謎であるかも知れない。――其後、太田はほんの短かい時間ではあつたが、二三度岡田と話す機會を持つた。その話し合ひの間に二人は、言葉遣ひや話の調子までもうすつかり昔のものを取り戻してゐた。「君の今の氣持ちを僕は知りたいんだが。……」聞きたいと思ふことの適切な言ひ現し方に苦しみながら、太田はその時そんな風に訊いて見たのであつた。「僕の今の氣持ちだつて?」岡田は微笑した。「それは僕自身にだつてもつと掘下げて見なければわからないやうなところもあるし……それにこゝでは君に傳へる方法もなし、また言葉では到底いひ現し得ないものがあるやうだ。」さういつて彼は考へ深さうな目つきをした。
「只これだけのことははつきりと今でも君に言へる。僕は身體が半分腐つて來た今でも決して昔の考へをすててはゐないよ。それは決して瘠せ我慢ではなく、又、何かに強制された氣持で無理にさう考へてゐるのでもないんだ。實際こんな身體になつて、尚瘠せ我慢を張るんでは慘めだからね。――僕のはきはめて自然にさうなんだ。さうでなければ一日だつて今の僕が生きて行けない事は君にもよくわかるだらう。……それから僕は、どんなことになつても決して、監獄で首を縊つたりはしないよ。自分で自分の身體の始末の出來る限りは生きて行くつもりだ。」岡田はその時、持ち前の靜かな低音でそれだけの事を言つたのである。
その話をしてから一週間ほど經つたある日の午後、洋服の上に白衣を引つかけた一見して醫者と知れる三人の紳士が突然岡田の監房を訪れたのであつた。扉をあけて何かガヤガヤと話し合つてゐる樣子であつたが、やがて「外の方が日が當つて暖かくつていいだらう。」といふやうな聲がきこえ、岡田を先頭に四人が庭に下り立つて行く姿が見えた。而してそこで岡田の着物をぬがせ、彼は犢鼻褌ひとつの姿になつてそこに立たせられた。――丁度それは癩病患者の監房のすぐ前の庭の片隅で、よく日のあたる場所であつたが、
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