汁をなめつくし、その眞只中から自分の確信を鍛へ上げた、といふほどのものではなかつた。ふだんは結構それでいいのだが、一度たとへやうもない複雜な、そして冷酷な人生の苦味につき當ると、自分の抱いてゐた思想は全く無力なものになり終り、現實の重壓に只押しつぶされさうな哀れな自己をのみ感じてくるのである。過酷な現實の前に鬪ひの意力をさへ失ひ、へなへなと崩折れて了ひ――自分が今までその上に立つてゐた知識なり信念なりが、少しも自分の血肉と溶け合つてゐない、ふわふわと浮き上つたものであつたことを鋭く自覺するやうになるのである。一度この自覺に到達するといふことは、なんといふ恐ろしい、そしてその個人にとつては不幸なことであらう。理論の理論としての正しさには從來どほりの確信を持ちながらも、しかもその理論どほりには動いて行けない自分、鋭くさういふ自分自身を自覺しながらもしかも結局どうにもならない自分、――それを感じただけでも人は容易に自殺を思はないであらうか。
 自分自身が今そこでさいなまれつゝある不幸な現實の世界を熟視しながら太田は思ふのであつた。この嚴しい、激しい、冷酷な、人間を手玉に取つて飜弄するところのものが今日の現實といふもののほんとうの姿なのだ。そしてさういふ盲目的な意志を貫ぬかうとして荒れ狂ふ現實を、人間の打ち立てた一定の法則の下にしつかと組み伏せようとする、それこそが共産主義者の持つ大きな任務ではなかつたか。そして、自分も亦、その爲に鬪つて來たのではなかつたか。――さうは一應頭のなかで思ひながら、彼の本心はいつかその任務を果すための鬪爭を囘避し、苦しい現實の中から、たゞひたすらに逃げ出すことばかりを考へてゐるのであつた。彼は積極的に生きようといふ欲望にも燃えず、凡ての事柄に興味を失ひ、只々現實を嫌惡し、空々寞々たる隱者のやうな生活を夢のやうに頭のなかにゑがいて、ぼんやり一日をくらすやうになつた。それは、結局はやはり病にむしばまれた彼の生氣を失つた肉體が原因であつたのであらうか。――だが、時々は過去に於て彼をとらへた情熱が、再び暴風のやうにその身裡をかけ巡ることがあつた。太田は拳を固め、上氣した熱い頬を感じながら、暗い獨房のなかで若々しく興奮した。しかし次の瞬間にはすぐに「だが、それが何になる、死にかゝつてゐるお前にとつて!」といふ意地のわるい囁きがきこえ、それは烈しい毒素のや
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