にかけて、病み衰へた手に拳を握ると、素手で片つぱしから窓ガラスをぶつこはし始めたのである。恐ろしい大きな音を立ててガラスの破片が飛び散つた。後難を恐れた同居人の一人が制止しようとして後から組みつくと、苦もなくはねとばされてしまつた。物音に驚いた看守と雜役夫とがかけつけて漸く組み伏せるまで、若者は狂氣のやうに荒れ狂つた。後手に縛り上げられた靜脈のふくれ上つた拳にはガラスの破片が突き刺さつて鮮血で染まつてゐた。若者はそのまゝ連れて行かれ、三日間をどこかで暮して歸つて來た。病人だからといつても懲罰はまぬがれ得なかつたのである。ただそれが幾分か輕かつたぐらゐのものであらう。青い顏をして歸つて來、監房へ入るとすぐに寢臺の端に手をさゝへて崩折れたほどであつたが、無口な若者はそれ以來益々無口になり、力のないしかし嚴しい目つきでいつまでもぢつと人の顏を見つめるやうになり、間もなく寒くなる前に死んでしまつた。
さきに言つたやうに、太田は癩病患者と棟を同じくして住んでゐた。
半ば物恐ろしさと半ば好奇心とから、彼はこの異常な病人の生活を注目して見る樣になつた。――雜居房の四人の癩病人は、運動の時間が來るとぞろぞろと廣い庭の日向へ出て行つた。太田はその時始めて、彼らの一々の面貌をはつきり見ることができたのである。色のさめた柿色の囚衣を前のはだけたまゝに着てのろのろと歩み、ぢつとうづくまり、ふと思ひ出したやうに小刻みに走つて見、又は何を思ひ出したのかさもさもおかしくてたまらないといつた風に、ひつつゝたやうな聲を出して笑つたりする、殘暑の烈しい秋の日ざしのなかの、白晝公然たる彼らのたたずまひはすさまじいものの限りであつた。四人のうち二人はまだ若く、一人は壯年で他の一人はすでに五十を越えてゐるかと思はれる老人であつた。若者は二人とも不自然にてかてかと光る顏いろをし、首筋や頬のどちらかには赤い大きな痣のやうな型があつた。人の顏を見る時には、まぶしさうに細い眇目《すがめ》をして見るのであるが、ぢつと注意して觀ると、すでに眼の黒玉はどつちかに片よつてゐるのであつた。二人とも二十歳をすぎて間もあるまいと思はれる年頃であるが、おそらくは少年時代のうちにもうこの病ひが出たものであらう、自分の病氣の恐ろしさについても深くは知らず、世の中もこんなものと輕く思ひなしてゐるらしい風情が、他からもすぐに察せられ、
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