愕然とした面持で凝つとそれに見入つてゐたが、やがてあわててポケツトから半巾を出して口をおほひ、無言のまゝ戸を閉ぢ急ぎ足に立ち去つた。
やがて醫者が來て簡單な診察をすまし、歩けるか、と問ふのであつた。太田がうなづいて見せると彼は先に立つて歩き出した。監房を出る時ふと眼をやると、洗面器の血潮はすでに夏の日の白い光線のなかに黒々と固まりかけてゐて、古血の臭ひが鼻先に感ぜられた。
日のなかに出ると眼がくらくらして倒れさうであつた。赤土は熱氣に燃えてその熱はうすい草履をとほしてぢかに足に來た。病舍までは長い道のりであつた。どれもこれも同じやうな幾つかの建物の間を通り、廣い庭を横ぎり、又暗い建物の中に入りそれを突き拔けた。病舍に着くとすぐに病室に入れられ、氷を胸の上にのせて、太田は絶對仰臥の姿勢を取ることになつたのである。
七日の間、彼は夜も晝もただうつらうつらと眠りつゞけた。その間にも、凝結した古血のかたまりを絶えず吐き續けた。彼は自分の突然落ちこんだ不幸な運命について深く考へて見ようともしなかつた。いや、彼のぶつかつた不幸がまだ餘りに眞近くて彼自身がその中に於て昏迷し、その不幸について考へて見る心の餘裕を取り戻してゐなかつたのであらう。やがて落着きを充分に取り戻すと同時に、どんなみじめな思ひに心が打ち摧かれるであらうか、といふことが意識の奧ふかくかすかに豫想はされるのではあつたが。重湯と梅ぼしばかりで生きた七日ののち、彼は漸く靜かに半身を起して身體のあちらこちらをさすつて見て、この七日の間に一年も寢ついた病人の肉體を感じたのである。まばらひげの伸びた顎を撫でながら、彼はしみじみと自分の顏が見たいと思つた。ガラス戸に這ひ寄つて映して見たが光るばかりで見えなかつた。やがて尿意をもよほしたので靜かに寢臺をすべり下り、久しぶりに普通の便器に用を足したが、その便器のなかに澱んだ水かげに、彼ははじめてやつれた自分の顏を映して見る事ができたのであつた。
八日目の朝に看病夫が來て、彼の喀痰を採つて行つた。
それから更に二日經つた日の夕方、すでに夕飯を終へてからあわただしく病室の扉が開かれ、先に立つた看守が太田に外へ出ることを命じたのである。そして許された一切の持物を持つて出る事をつけ加へた。夕飯後の外出といふことは殆んどないことである。彼は不審さうにつゝ立つて看守の顏を見た。
「
前へ
次へ
全39ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島木 健作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング