丁寧な言葉でそれをいひ、温顏(さう古賀は想像した)をもつて終始した。古賀は言葉すくなに答へ、もう少し考へて見たいこともあるからと言つて歸つて來たのである。歸りの廊下で編笠の隙間からのぞかれる彼の顏は、心持蒼白に引きしまつて見えたが、その口もとはかすかにゆがみ、冷やかな笑ひに近いものさへそこにはうかんでゐた。……
――古賀はこの數日來の興奮が次第におさまつて行くのを感じてゐた。同時に心の奧に殘つてゐた曖昧なものゝの最後の一片が、過去の囘想に浸つてゐるうちにいつか自然と除かれてしまつたことに氣づいてゐた。――一審の公判を終へてから今日まで十ヶ月、その間彼は幾度も弱り又元氣を取戻した。元氣をとりもどし、あたゝかい血潮の流れを身裡に感じ、萎縮し切つてゐた胸がまるくふくらんでくる思ひがすると古賀は記憶のなかから幾つかの歌をとり出しては口ずさんだりするのであつた。それらの歌はみんな彼の過去の鬪爭の生活と結びついてゐた。若々しく興奮し、心持ふるへる押し殺したこゑで暗闇のなかで古賀はそれをうたふのだ。だがやがて彼はまたじり/\と弱つてゆき、かぢかんだ心になるのであつた。――あの公判のすんだ當座はわれながら不思議なぐらゐに元氣で、それまできまらないでゐた心も公判を楔機にしつかときまつたかのやうに感じさへした。しかし時が經つにつれてだん/\暗いかげが彼の上をおほひはじめ、ふたたびよるべのない空虚さに心を蝕ばまれはじめるのであつた。公判だといふので無理にも心を鼓舞し鞭撻しなければならなかつたその緊張がすぎ去つたとき、こんどは今までにない弛緩した心身を感じなければならなかつたのである。この空虚なさびしさは理窟ではどうすることもできない、心の深いところに根ざした抗しがたいものゝやうに思はれた。不幸な目にあつた當座はまだよかつた。自分で絶えずなんとかしてはね起きようと努力してゐたからである。一定の時期さうし状態がつづき、その次に來たその當時のやうな虚脱状態はどうにも仕樣がなかつた。ずる/\とほとんど不可抗的な力でニヒルな氣持にひきずられて行つた。――しかし古賀はだん/\さうした場合に處する心の持ち方をも自ら體得して行つた。さういふ時にこそ彼は「時」にたよつたのである。無理に心を反對の方向に驅り立てようとはしないで靜かにその暗さのなかに沒入して時を待つたのである。すると、やがては心の一角にほの
前へ
次へ
全30ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島木 健作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング