ぐ前の庭に、日に向つて絢爛なそのもみぢ葉をほこつてゐるにちがひない、一本の黄櫨《はぜ》の木などがおのづからうきあがつてくるのであつた。陽は彼の垢づいた袷をとほしてぬくもりを肌につたへ、彼はしばらくのあひだわれ知らずうつらうつらとした。長いあひだ忘れてゐた、ふしぎなあたたかい胸のふくらみを感じるのであつたが、同時にさういふ自分の姿といふものがかへりみられ、秋の日の庭さきなどでよく見かける、動く力もなくなつて日向にぢつとしてゐる蟲の姿に似たものをふつと心に感じ、みじめなわびしさに胸をうたれるおもひであつた。――ちやうどその時、向ふの廊下をまつすぐにこつちへ向いてくる靴のおとがきこえてきた。
午後になるとこゝの建物のなかはひつそりと靜まりかへるのであつた。朝は、こゝの世界だけが持つてゐるいろいろなものおとが、――役人たちのののしりわめく聲、故意にはげしくゆすぶつてみるのであらうとおもはれる彼らの佩劍のおと、扉をあけ又しめる音、鍵や手錠のしまる時の鐵のきしむ音、出廷してゆく被告たちの興奮をおし殺したさゝやきの聲、――さういつたもの音が雜然としてそこの廊下に渦をまき、厚い壁と扉をとほし、それは恐ろしいひびきをその壁の内部に坐つてゐる者たちにまでつたへるのであつた。氣の小さい者はそのもの音にぢつとしては坐つてをれず、おもはず立上つてはいくどもそこの小さな覗き窓から外をうかがひ、房のなかをうろうろし、みじかい時間のうちに何度も小用に行つたりするのである。晝すぎになるとしかし朝のうちのさういふさわがしさもいつか消えてゆき、人々は心の落つきを取りもどすと同時に、ものみなを腐らす霖雨のやうな無聊に心をむしばまれはじめるのである。――さういふ靜けさのなかに、近づいてくる靴の音を聞き、耳の鋭くなつてゐる古賀はすぐにその靴音の主が誰であるかを悟つた。さうしてそれが近づいてくるに從つて、なんとはなしに自分のところへやつてくるもののやうに感ぜられるのであつた。はたしてそれはさうだつた。靴音は彼の房の前まで來て立ちどまり、やがて、扉があいた。うながされるまゝに古賀は机の上にのせてあつた黒い眼鏡をかけ編笠をかぶつて外へ出たのである。
「おい、こつち/\」と二度ばかり注意はされながら、人に手を取つてもらはなくてももうだいぶあるくになれて來た長い廊下を行き、つきあたりを右へまがり――そのまがりしなにす
前へ
次へ
全30ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島木 健作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング