とは困難である。さらに困ることは仔を生んだ親馬が眼に見えて弱つて行くことだ。ナイラや骨軟病や骨膜炎、齒根膜を冒される病氣など、一體に非常に病氣にかかり易くなる。充分な考へなしにうかうかと仔など生ませては却つて虻蜂とらずに終つてしまふ。
この家の馬小屋の立派なのには私は感心した。東北地方に於て見るやうに農家と一つではなくて獨立した建物である。ひろびろとしてゐて、敷藁も厚く、清潔である。
なかをのぞいて見ただけで飼主の愛情とよく行き屆いた神經が感じられる。私が感じたままをいふと、S君は率直にその言葉を受けて喜ぶのだつた。
馬小屋の傍には堆肥場がある。粘土に石灰をまぜたもので築いてある。これの方がコンクリートよりはずつと水を吸はぬのださうだ。役場では一戸當り、年に二萬貫の堆肥を目安に奬勵してゐますが、私のところでは七千貫から八千貫の間ですとS君は語つた。
立派なのはひとり馬小屋ばかりではない。納屋、農具置場、燃料貯藏場などを見て行くと流石に上川平野の百姓であることを思はせる。納屋は五十坪ほどもあつて、板敷で、仕事場になつてゐる。東北地方の農家の「いなべ」が獨立した家屋になつたやうなものである。ここには動力線が引かれて、日立の一馬力のモーターが※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]轉する。農業用機械には内地には見られぬものが多い。このあたりの農家は普通一戸分を三町五反歩とするが、農具に固定してゐる金は平均二千圓ぐらゐであらうといふ。S君の家では六町餘から作つてゐるから三千圓を越すといふ。六町餘の田を作る働き手はわづか四人で、しかも三人は女手なのだからさまざまに工夫された農具の助けを借りなくては間に合はぬ。
しかも氣候の影響ですべての作業の期間は非常に短縮されてゐるのだ。農具のことになるとS君は不平の面持で訴へはじめた。
試驗場やその他の役人達は此頃しきりに我々が機械を買ひすぎるといふ。北海道の百姓が貧乏するのは一つにはそれが原因だといふ。それはさうかも知れないが我々だつて何も道樂に機械を買ふのではないのだ。いかにも農具の中には一年に一週間か十日しか使はぬものだつてあるが、それだつてみなそれぞれに無くては適はぬものである。次々に新しく農具が改良され、誰もそれを買はぬのならいいが、幾人かでも買つて使ふものがあるとすれば他のものも皆仕事に負けまいとして無理をしてでも買ふやうになるのは當り前のことだ。又ある機械などは共同で買つて共同作業するやうにせよともいはれるが、田圃での共同作業といふものはさうわきから考へるやうにすらすらとやれるものではない。生産の行程の一切が共同ならともかく、ある一部だけさうしろといつても無理なことが多い。それにさうかと思ふと又一方には、我々が何に限らず集つて一緒に仕事をするといふことを心の底では喜ばぬげな役人もゐる。共同作業の習慣をつけると社會主義になるのださうだ。改良された農具や機械が澤山使はれるのは農業の進歩だと思つてやつて來たが、近頃ではそれをも餘り喜ばぬ人があるやうだ。
私は默つて聞いてゐるだけであつたが、どこへ行つても役人はなぜかう人氣が無いのかと驚くのだ。私は何も組合運動者などにばかり逢つて聞いてゐるのではないのだが。爲政者の精神と政策とが、篤實な農村青年の心を一向にとらへてゐさうにもないのは遺憾である。
私達は間もなくその家に入つて御馳走になつた。S君は畑から唐黍をもいで來てくれた。もうすつかり固くなつてゐるが、取り立てだから燒いたのをよく噛みしめてゐると美味しい。私などが子供の時に知つてゐた大きな圍爐裏がもうなくなつてゐる。そこにはストーブがあつて年中焚かれてゐる。煮炊き一切はこれでするのだ。燃料の主なものはおが屑である。一尺四方に押し固めたものが三錢五厘で、これの一年の費用がおよそ三十圓であるといふ。晝飯のおかずは茄子の煮つけ一皿だ。事變以後の一汁一菜の聲などと何の關りもない一皿であることは云ふまでもないだらう。
私達はそれからS君に別れて、ある出征兵士の家を見舞つた。そこでは青年達が集つて勞力奉仕の作業につとめてゐた。彼等の手で稻架木《はさぎ》が立てられてゐる。稻はもう四五日のうちに刈られ始めるのだ。
凉しい風が吹いて來て、大雪山《だいせつざん》と十勝嶽と兩方の山頂がいつか雲にかくれてゐた。
底本:「現代日本紀行文学全集 北日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年8月20日作成
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