先づ先づいいと答へ、自家の前の一段歩ほどの田を指して、ここは青年團の多收穫のための試驗田であると云つた。堆肥四百貫、その他の肥料三十貫が入つてゐるが、自分の見るところでは六石は大丈夫であらうと思ふ、二三日中に坪刈りをして見るのだと云つた。
あたたかな地方では多收穫栽培法に於て七石八石といふのは今日ではもう珍らしくはないのだらうが、北海道でこれを聞くのは力強いことである。
稻の背は低く、莖も細く本州のそれを見慣れて來た眼には貧弱である。だから稈は藁細工品としては使ひものにならぬといふことだ。私は青森縣の西海岸を歩いた時のことを思ひ出し、そこで見た稻のすがたと一つであると思つた。あの地方は有名な津輕の凶作地帶ゆゑ、冷害に堪へる品種が行はれてゐるに違ひなく、小さく細いのは發育不良のためではなく、そこでも今年の作はいいとの喜びの聲を私は聞いて來た。私は青年に訊いて今見てゐる稻の品種が富國だといふことを知つた。
この村では全耕作反別の八割がこの品種で、去年の成績によつて、今年から急にふえたのだといふ。收穫量も多いし、強健でもある。
「ごらんなさい、ああいふ風になるのがあるんです。」指さす方を見ると、一枚の田全部の稻が横倒しに倒れてゐる。富國種にくらべるとずつと莖が長い。「ああなつてゐる上に、あつたかい雨でも降ると、芽が出るんですよ。富國にはそれがないんです。」
「富國といふのはかういふんです、見たところもちよつと變つてゐるでせう。」青年はさういつて、穗からちぎつて、米粒を出して、私の手のひらにのせてくれた。見るとなるほど、肥つたまるい形でよほど變つてゐる。私は生米を口に入れて噛んだ。
私達が豐穰を喜んでしきりに云ふと、青年は却つて頭を横にふつて、いやいやこれで案外にしいな[#「しいな」に傍点]もまじつてゐるらしいから全體としてはまだ何ともいへぬといつて、大したことはあるまいといふことを強調しさきの自分の言葉を打ち消すかのやうであつた。一體に百姓はいいといふことは云はぬものなのだ。百姓のずるさに見えることもあるが、そればかりではなくて、それだけ百姓はいざといふ土壇場に於てはぐらかされ續けて來てゐるのである。
樂しい夢想をし續けたあとからすぐにも自分のその考が空恐ろしくもなるものらしい。つねに最惡の場合を考へて生きてゐる。
馬屋を見たり、納屋へ入つて農具の説明を聞いたりしてから、また馬屋へ來て、此頃徴發に行つたが大き過ぎて戻されたといふ馬の鼻面をなでながら、私は一時間ほどもその青年と四方山の話をした。確に北海道の農村青年の獨自な氣風といふものは感じられる。北海道の農村の新しさが生んだもので、その氣魄も、その考も溌剌としてゐて自由であつた。
どこへ行つても最大の關心をもつて語られるのは馬のことであつたが、ここでも先づ馬の話から聞かされた。私はつい先達青森縣|木造《きづくり》の有名な馬の糶市《せりいち》を見て、その盛んな景況に驚き、馬市の立つ期間のお祭騷ぎのやうな町の賑はひを物珍しく感じて來たものだが、この糶市では二歳駒が四百圓ぐらゐで賣買されることが珍しくなかつた。Sはこつちで四百圓などといふ馬は、足をつかんで、かう肩にのつけて行けるやうな馬だと云つて、以前から見れば馬の値は三倍から四倍だらうと語つた。北海道で馬を持たぬ百姓などといふものはルンペンのやうなものだから、この問題は深刻である。
馬は博勞を通して買ふ。博勞は馬一頭につき百圓ぐらゐの利を見てゐて、腕のある博勞といふのは年に二十頭ぐらゐの馬を扱ふのだといふ。
儲け過ぎる感じを與へるが、しかし考へて見れば博勞はそのために旅もするのだし、行く先々での滯在の費用なども見ねばならぬのだし、彼等としてみれば無理もないことだ。どんな商賣にだつて仲介商人はあるのだし、昔からちやんと認められてゐる博勞を、此頃馬の値が急に騰つたからといつてそれがことごとく彼等のせゐででもあるやうに惡ブローカー呼ばはりをするのは當らぬ、とSはいふのだ。少しでも安い馬を買ひたいと、自分から馬産地の十勝《とかち》方面などに出向いたものもあるさうだが、却つて高くついて了つたといふ。願はしいのはお上が何等かの方策を樹ててくれることだ。しかしお上はどんなことをしてくれてゐるか?
牝馬を飼つて仔を生ませろ、といふことを此頃はしきりに云はれてゐますけれど、とSは云つて笑つた。仔は生れたにしてもただでは育たぬ。生れた仔をちやんとした二歳駒にするためにはそれ相應の飼養上の設備がいることである。しかしこのあたりには放牧のための野原一つないのだ。牧草の採取すらも自由に任せぬ。春の農耕時、一ヶ月間の馬の飼料代として五十圓も支出しなければならぬほどである。放牧場もないやうなことでは立派な農耕馬の條件にかなふ骨骼をそなへさせるこ
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