石を投げることをやめて、また石の上に腰を下ろした。
秋の日はいつか日がかげりつつあつた。山や森の陰の所は薄蒼《うすあを》くさへなつて来てゐた。私は冷えが来ぬうちに帰らねばならなかつた。しかし私は立ち去りかねてゐた。
次第に私は不思議な思ひにとらはれはじめてゐた。赤蛙は何もかにも知つてやつてゐるのだとしか思へない。そこには執念深くさへもある意志が働いてゐるのだとしか思へない。微妙な生活本能をそなへたこの小動物が、どこを渡れば容易であるか、あの小さな淵がそれであることなどを知らぬわけはない。赤蛙はある目的をもつて、意志をもつて、敢て困難に突入してゐるのだとしか思へない。彼にとつて力に余るものに挑《いど》み、戦つてこれを征服しようとしてゐるのだとしか思へない。私はあの小さな淵の底には、その上を泳ぎ渡る赤蛙を一呑みにするやうな何かが住んでゐるのかも知れない、あるひはまたあの柳の大木の陰には、上から一呑みにするやうな蛇の類がひそんでゐるのかも知れない、といふやうなことも考へてみた。しかしその時の私にはそんなことを抜きにしてさきのやうに考へることの方が自然だつた。その方が自分のその時の気持にぴつたりとした。
赤蛙は依然として同じことを繰り返してゐる。はじめのうちは「これで六回、これで七回」などと面白がつて数へてゐた私は、そのうち数へることもやめてしまつた。川の面の日射しがかげり出す頃からは赤蛙の行動は何か必死な様相をさへも帯びて来た。再び取りかかる前の小休止の時間も段々短かくなつて行くやうだつた。一度はもうちよつとの所で向う岸に取りつくかと見えたが、やはり流された。それが精魂を傾け尽した最後だつたかも知れない。それからは目に見えて力もなく脆《もろ》く押し流されてしまふやうに見えた。坂を下る車の調子で力が尽きて行くやうに見えた。
吹く風も俄《にはか》に冷たくなつて来たし、私は諦《あきら》めて立ち上つた。道風《たうふう》の雨蛙は飛びつくことに成功したがこの赤蛙はだめだらう……私は立つて裾のあたりを払つた。もう一度、最後に、川の面に眼をやつた。
私は思はず眼を見張つた。ほんのその数瞬の間に赤蛙は見えなくなつてしまつてゐた。私はまた中洲の突端に取りついて浮び上る彼の姿を待つてゐたが、今度はいつまでたつても現れなかつた。遂に成功して向う岸にたどりついたのだとはどうしても思へなかつた。私は未練らしく川のあちらこちらを何度も眺め廻したあとでたうとうそこを立ち去つてしまつた。
しかし川に沿うて下つて、まだ五間と行かぬうちに、思ひもかけぬところで再び彼と逢つたのである。
今度はすぐ眼の下、こつち岸に近いところだつた。そこは水も深く大石が幾つもならんでゐて、激して泡立つた流れの余勢が、石と石との間で蕩揺《たうえう》したり渦《うづ》を作つたりしてゐた。そしてさういふ石陰の深みの一つに赤蛙は落ち込んでゐるのだつた。かうなつた順序は明らかだつた。押し流される毎に中洲の突端にすがりついてゐた彼は、もうその力もなくなつて流されるがままになつたのだ。洲をはさんで一つに合した水の流れは大きく強くなつて、煽《あふ》るやうな勢で、こつち岸へ叩きつけてよこしたのだ。事態は赤蛙にとつて、悲惨なことになつてしまつてゐた。彼は蕩揺する波に全く飜弄《ほんろう》されつつある。辛うじて浮いてゐるに過ぎぬやうだが、それが彼の必死の姿であることは、彼の浮いてゐる石陰のすぐ近くには渦巻があつて、絶えずそこへ彼を引きずり込まうとしてゐることからもわかるのだつた。彼に残された活路はたつた一つきりだつた。石に這ひ上ることである。だが、その石の面たるや殆ど直立してゐて、その上に水垢《みづあか》でてらてらに滑つこくなつてゐるのだ。長い後肢も水中では跳躍力もきかず、無力に伸ばしたりかがめたりするのみだつた。時々彼の前肢は石の小さな窪みに取りついたが、すぐにくるつと引つ繰り返つて紅い斑点のある黄色な腹を空しくもがいた。私は何か長い棒のやうなものを差し伸べてやりたかつたが、そんなものはあたりには見あたらなかつた。今はただぢつとその帰趨《きすう》を見守つてゐるばかりである。
やがて赤蛙は最後の飛びつきらしいものを石の窪みに向つて試みた。さうしてくるつとひつくりかへると黄色い腹を上にしたまま、何の抵抗らしいものも示さずに、むしろ静かに、すーと消えるやうなおもむきで、渦巻のなかに呑みこまれて行つた。私は流れに沿うて小走りに走つた。赤蛙が再び浮くかも知れぬ川面《かはづら》のあたりに眼をこらした。しかし彼は今度はもう二度と浮き上つては来なかつた。
私はあたりが急に死んだやうに静かになつたのを感じた。事実にはかに薄暗くなつても来てゐた。私は歩きながらさつきからのことを考へつづけた。秋の夕べ、不可解な格闘を
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