演じたあげく、精魂尽きて波間に没し去つた赤蛙の運命は、滑稽といふよりは悲劇的なものに思へた。彼を駆り立ててゐたあの執念の原動力は一体何であつたのだらう。それは依然わからない。わかる筈もない。しかし私には本能的な生の衝動以上のものがあるとしか思へなかつた。活動にはひる前にぢつとうづくまつてゐた姿、急流に無二無三に突つ込んで行つた姿、洲の端につかまつてほつとしてゐた姿、――すべてそこには表情があつた。心理さへあつた。それらは人間の場合のやうにこつちに伝はつて来た。明確な目的意志にもとづいて行動してゐるものからでなくてはあの感じは来ない。ましてや、あの波間に没し去つた最後の瞬間に至つては。そこには刀折れ、矢尽きた感じがあつた。力の限り戦つて来、最後に運命に従順なものの姿があつた。さういふものだけが持つ静けささへあつた。馬とか犬とか猫とかいふやうな人間生活のなかにゐるああいつた動物ではないのだ。蛙なのだ。蛙からさへこの感じが来る、といふこの事実が私を強く打つた。
 動物の生態を研究してゐる学者は案外簡単な説明を下すかも知れない。赤蛙の現実の生活的必要といふことから卑近な説明をするかも知れない。その説明は種明しに類するものかも知れない。そして力に余る困難に挑《いど》むことそれ自体が赤蛙の目的意志ででもあるかに考へてゐるやうな、私の迂愚《うぐ》を嗤《わら》ふであらう。私はしかし必ずさうだといふのではない。動物学者の説明の通りであつてもいい。だが蛙の如き小動物からさへああいふ深い感じを受けたといふその事、あの深い感じそのものは、学者のどのやうな説明を以てしてもおそらく尽すことは出来ぬのである。
 私は自然界の神秘といふことを深く感じてゐた。私としては実に久方ぶりのことであつた。天体の事、宇宙のことを考へ、そこを標準として考へを立てて見る、といふことは私などにも時たまある。それは一種の逃避かも知れない。しかし豁然《くわつぜん》とした救はれたやうな心の状態を得るのが常である。その時と今とは同じではない。しかし自然の神秘を考へる時にもたらされる、厳粛な敬虔《けいけん》なひきしまつた気持、それでゐて何か眼に見えぬ大きな意志を感じてそこに信頼を寄せてゐる感じには両者に共通なものがあつた。
 私は昼出た時とは全くちがつた気持になつて宿へ帰つた。臭い暗い寒い部屋も、不親切な人間たちも、今はもう何も苦にはならなかつた。私はしばらくでも俗悪な社会と人生とを忘れることができたのである。
 私は翌日その地を去つた。たづさへて来た一冊の書物も読まず、ただあの赤蛙の印象だけを記憶の底にとどめながら。
 病気で長く寝つくやうになつてからも、私は夢のなかで赤蛙に逢つた。私は夢のなかで色を見るといふことはめつたにない人間だ。しかし波間に没する瞬間の赤蛙の黄色い腹と紅の斑紋とは妖《あや》しいばかりに鮮明だつた。
[#地から2字上げ](昭和二十一年一月)



底本:「現代日本文學大系 70 武田麟太郎・島木健作・織田作之助・檀一雄集」筑摩書房
   1970(昭和45)年6月25日初版第1刷
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年8月26日公開
2005年12月23日修正
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