うに逃げてゆく。そうして腐った落ち柿などを食っている。猫は彼等ほど卑屈ではないがコソ泥以上に図々しくなってしまった。人間がいることなどは平気で家のなかを狙う。畳の上に足跡をつけて部屋を駆け抜ける。昔を思い出してか座蒲団《ざぶとん》の上に長まっていたりする。そのくせ人間の眼を見ると必ず逃げる。
 そんな時に彼奴が現れたのだ。
 其奴の前身は誰も知らなかった。大きな、黒い雄猫である。ざらにいる猫の一倍半の大きさはある。威厳のある、実に堂々たる顔をしている。尾は短かい。歩き去る後姿を見ると、その短かい尾の下に、尻の間に、いかにもこりこりッとした感じの、何かの実のような大きな睾丸《こうがん》が二つ、ぶらぶらしない引き締った風にならんでいて、いかにも男性の象徴という感じであった。欠点をいえばただ一つ、毛の色だった。それが漆黒であったら大したものだろう。しかし残念ながら黒猫とはいっても、灰色がかったうすぎたなくよごれたような黒であった。その色を見ると、やはり野良猫に成り下る運命にしかなかったかと思わせる。
 彼は決して人間を恐れることをしなかった。人間と真正面に視線が逢っても逃げなかった。家のなかに這入って来はしなかったが、たとえば二階の窓近く椅子を寄せて寝ている私のすぐ頭の屋根の上に来て、私の顔をじろりと見てから、自分もそこの日向にゆったりと長まったりする。私の気持をのみこんでしまっているのでもあるらしい。いつでも重々しくゆっくりと歩く。どこで食っているのか、餓《う》えているにちがいなかろうが、がつがつしている風も見えない。台所のものなども狙わぬらしい。
「いやに堂々とした奴だなあ。」と私は感心した。「何も取られたことはないかい?」
「いいえ、まだ何も。」と家のものは答えた。
「たまには何か食わせてやれよ。」と私は言った。世が世なら、飼ってやってもいいとさえ思った。
 郷里の町の人が上京のついでに塩鮭を持って来てくれた日の夜であった。久しぶりに塩引を焼くにおいが台所にこもった。真夜中に私は下の騒々しい物音に眼をさました。母も妻も起きて台所にいる声がする。間もなく妻が上って来た。
「何だ?」
「猫なんです。台所に押し込んで……」
「だって戸締りはしっかりしてあるんだろう?」
「縁の下から、上げ板を押し上げて入ったんです。」
「何か取られたかい?」
「ええ、何も取られなかったけれ
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