令をあたへ、それに忠實に從ふときはなほさら石川を立てることはできなかつた。しかも杉村を支持する下の組織がなほ充分な結成を見ない今日、正面切つて石川と對立することは組織を崩壞せしめる危險を孕まないとはいへぬのである。いくたの經緯を經たのちに、結局組合の中央部の幹部の島田信介を縣外から連れて來て立てることにした。農民の濃厚な地方意識を認めなかつたからではない、それに屈服せず、積極的にそれを打破するためにも、縣内の有力者間の内部的對立を避けるためからもそれが適當であるとしたのである。杉村ははじめて政治家らしい策動をやつた。石川一派を中央委員會で破るために。そして破つた。
 選擧運動の全期間にわたる石川とその支持者たちの、あるひは陰險な、あるひは公然のサボタージユは、多少の豫期を越えてはげしかつた。借りてある筈の演説會場が借りてなかつたり、貼つてある筈のポスターがその村にはいつても一枚も見當らなかつたりした。こつちの選擧事務員中のあるものが、ひそかに敵方の選擧事務所に出入りしてゐたといふうはさも全然の流言とは思へず、あてにしてゐた投票がどこかへ消えて了つたとしても、必ずしもふしぎはないと思ひあたるところが多いのである。

「大西、今日はもう遲いから泊つて行けや、な、いいだらう。」
 みんなが立ち去つたあとの白々とした部屋のなかに向ひ合つて坐り、杉村はいつた。このごろずーつと事務所に通つて來て杉村の仕事を助けてゐる、青年の大西を、今晩はなぜかこのまま歸したくない氣持がしきりだつた。
「うちさなんにも言つて來なかつたから、おれやつぱり歸るよ。」
「さうか、ぢやあもう少し話して行かないか。」
 火鉢の金網の上に大西の持つて來てくれたかき餅をのせ、燒けるのを待ちながら、若く精氣のあふれた大西の顏を頼もしいものに思ひぢつと見つめてゐた。するとにはかに話したいものが胸に滿ちて來た。小泉に話さうとし、彼の持つきびしいものに押されていひ出せず今まで胸にわだかまつてゐたものである。
「下で聞いていたらう、……連中の言つてゐたことを。」といつて彼はちよつと照れたやうな顏をした。
「遲かれ早から來なければならないことがやつて來たまでのことさ。だからおれはちつともおどろいてなんかゐやしないよ。選擧は一つのきつかけになつたまでのことで、それがなくつたつて何かの動機で遠からず起ることだつたのさ。實際どこの組織だつてある程度まで發展して來たときには必ず一度は經過する過程なんだからな。問題はそれをいかに乘り越えるか、どうして内部的對立を單なる對立に終らしめずに發展への足がかりにするか、といふことにあるんだ、――それはわかつてゐる、だが、」杉村は額に手をあててうつむき、大西への言葉が自分自身への低くつぶやくやうな聲に變るのであつた。「おれにこの波がうまく乘り切れるかどうか? おれはそれが不安なんだ、恥しい話だが本音を吐けばそれについての充分な自信がおれにはない。組織人員のふえて行くことにばかり目をうばはれ、有頂天になり本質的なものを見失つてゐた。組合内部に氾濫してゐる小ブルジヨア的な要素におれ自身いつのまにか曵きずられてゐた形だ。そして氣がついて見た時にはもうその矛盾は荒療治をしなくちや解決の出來ないものになつて了つてゐた。君たち若い連中を僕の周圍にしつかり固めようとにはかに努力しはじめたのなんかも、實際泥繩式だといつて嗤はれても仕方がないんだが、……」
「杉村さん、そりやなにもあなたひとりの責任でも罪でもありませんよ。」とだまつてゐた大西がそのときいつた。さつき階下で歸つて來た杉村をとらへてものをいつたときの大西とは別で、圓い顏に微笑をたたへ、もうすつかりおちつきを取戻してゐるやうに見えるのであつた。
「先生は何から何まで、自分ひとりの肩に背負つてるふうに考へなさるから大へんだ。それぢやあんまり苦勞が多すぎなさる。……先生個人の問題ぢやなくて組織の問題ぢやとわしや思ひますけんど。」
 杉村は思はずはつとして顏をあげた。この若ものが何氣なく言つた言葉は杉村の虚をつきさす鋭さを持つてゐた。彼は固唾を呑む思ひで次の言葉に耳を傾けた。
「必要ならばどうにも仕方がないから荒療治でもなんでもやりませうよ。」事柄がはつきりした形をとり、あれかこれかがもはや許されぬと知ると同時に、彼はかへつて平氣になつたものらしい。
「けど、乘り切ることが出來るかどうかつて、今にも組合がつぶれでもするやうに先生みたいに心配することはないと思ひますが。やつて見にやわからんことなら今から心配しても無駄ぢやし……、それにわしの考へでは分裂しても案外石川なんぞについて行くものはないといふ氣がします。ついて行つても一時ですね。」なぜさうなのか、彼はそれの根據については説明せずに過ぎて行つた。だが働くものが、おなじ働く仲間を信じてゐる確かさがそこにはあつた。「それから先生、先生の前でこんなことをいつちやわるいが、わしには事務所の書記中心の農民運動はもうだめぢやといふ氣がしますが……、今の組織はその點でまちがつとるといふ氣がしますが。青年部の鬪士養成なんぞもその見地からばかしやられて來て、たとへば先生と今のわしらの研究會ね、ありやほんにためになるけんど、ああやつてちつとまし[#「まし」に傍点]な青年が出て來るとそいつをすぐに事務所の書記に引上げるといふ、今までのやり方にはどうも賛成出來んのです。第一、百姓をやめて町さ來てゐては、部落の衆となじみがうすくなるから今度のやうな時には困るものね。やつぱりあくまでも部落さしがみついて、みんなと結びついてをらんことには……。」
 彼はそこで休み、鉈豆に刻みをつめ、口に持つて行つた。淡々として何氣なく言つたその言葉が、どれほどの力をもつて杉村に働きかけたかを彼自身果して知つてゐるだらうか。杉村は感動でほとんど押し倒されさうになつたのである。いつの間にかかういふ大西に生長したものであらう。最後の彼の意見のごとき、つい先日、杉村が小泉と論じ合つたばかりの問題ではないか。
「さうだ、さうだ、それにちがひないんだ。書記中心、事務所中心の農民運動はもうだめなんだ。これからは――」
 感情が激してそのつぎの言葉につまるうちに、大西は急に何かに思ひついたらしくにつこりし、まるで別のことをいひはじめた。
「先生も少し休むんですね。だいぶ身體が弱つてをられるやうだから。實際、去年の秋の忙しさからすぐに選擧ですからねえ。息のつく暇もありやしない。何もかも忘れて少しお休みになつたらいいんです。今のことだつてそれほど差迫つたことでもない、差迫つてゐたところであわてたつてどうにもなるこつてなし、――先生、D―温泉ね、あそこはいいですよ、一度あそこにいらつしやい、月十五圓ですみますが。」
 それには答へず、杉村はぢつと大西の眼に見入りながらしみじみといつた。
「これからはなんといつても君たちだ、君たちがほんとうの農民運動をやらなくちや。もう一ぺん下から叩きなほすんだ!」それからちよつと間をおいて憂はしさうに聲をおとした。「春の大會はしかしさぞもめることだらうなあ。うまく行つてくれればいいが――」
 そして我にもあらぬ感傷のなかにずるずるとずりおちて行く自分をどうすることも出來なかつた。

 大西が歸つてからも杉村はしばらく起きてゐた。ぼんやり坐つて、いろいろな想念が秩序なく頭のなかに犇めきあふに任せておいた。大西は樂觀していつたが、彼がその責任者である組織の運命、それの當面してゐる諸問題、組織者としての自分の能力についての反省などが彼のなかでからみ合つた。農民が所屬してゐるそれぞれの層の組織内での重さ輕さが問題であると思つた。組織運動の一つの段階のちやうど終りに來てゐるといふ氣がした。つまり富農的小作人とでも名づけていい要素が、ある時期、特に初期の時期に組織内に壓倒的な力を持つのは必然なのだが、その時期が今終らうとしてゐる。彼らは彼らの持つ限界に到達したわけである。もし貧農的要素と彼らとの間に對立が起れば、その對立は避けるべきではなくその結果組合の數的勢力が微弱になつても仕方がないと杉村は考へた。そして現在貧農的要素が組合内に力弱いことは事實である。數の上での大小はともかく、組織内での實權を彼らは持たなかつた。村における彼らの社會的地位の輕重が、無産者的な組織のなかにまでそのまゝ持ち込まれてゐる奇妙さについて杉村は考へた。――そこで彼の考へは組織外のおおびただしい數の貧農の上にまでのびて行つた。直接小作料の問題で立ち上る氣力のない貧農、又は立ち上つても會費を納入し、恒久的な組織に保持しえない貧農についてである。廣汎なその層を問題にして來ると今のやうな組織と要求の取上げ方だけでは無力だつた。どうしても別個の新しいたたかひの形態が必要であり、今まで輕視されてゐた小作料以外の要求が重要視されねばならぬ時である。杉村は最近讀んだ支那の農民運動について考へあのなかにこそ多くの示唆があるのにちがひないと思ふのだつた。――しかし問題がそこまで進んで來ると、それの重大さ困難さの前に、組織者としての自分の能力について反省せずにはゐられなかつた。この仕事にこそ命を賭して悔いぬと全身で思ひこんだ。だがその三年間に實際にしとげた仕事の貧しさといふものはどうであらう。大西その他二三の青年を見出したことが結局最大の成果であるやも知れぬ。杉村が仲間たちの間で多少重んぜられてゐたのは、組織者としての能力の優越のためではなく、仕事の前に私の生活を無視し抹殺する彼の態度に一應の敬意が拂はれてゐたにすぎない。すべて和やかなもの、浮々するもの、駘蕩たるものは彼にあつては退けられ、きびしくはげしいものだけが迎へられた。酒や煙草や、豐かな食物などが退けられてゐたのも、あながち健康や、經濟のためばかりではなかつた。書記たちの會議があり、その夜町の事務所に泊るとき、杉村は自分の隣に寢た筈の仲間たちの姿が、いつか消えてゐるのをいくどか見た。彼らがどこへ行くかを杉村は知つてゐた。そして杉村はかつてさういふ仲間たちの後を追つたことはなかつた。一度だけ、ある夜その明るい街の方へ足を向けたことがあつた。だが、彼のふところのなかの、そしてそこで使はるべき金が、百姓の米を賣つた金から出てゐることに思ひあたつたとき、杉村は逃げるやうにして事務所へ歸つて來た。「血の一滴、精力の一とカケラといへど仕事のために。」彼はそれを聲に出していつてみた。しかしさういふ杉村の態度には、さういふものを追求してゐるのと同樣な、拘泥し囚はれたものが感じられ、萬事に圖太くなり切れぬ小心な潔癖が結局組織者としても小さな器《うつは》に過ぎぬことの證《あか》しであるかも知れなかつた。――
 頭のなかは熱し切つてゐるくせに、どこかうつろな片隅がぼそんと口をあけてゐるやうな氣持だつた。親しみ深く見慣れた机や書棚や、雜然と積みあげられた書類の山や、何から何までが妙にカサカサとして味氣なかつた。やはり身體が少し弱つてゐるのであらう。急に氣がゆるみ、何度目かの疲れが襲つて來、上衣を脱いだそのまゝの姿で、杉村は部屋の隅の寢床に横になつて眠りこんだ。

 敗戰後に當然來るべきものがしかし案外に早く來た。――それから三日目の午後、杉村はある村の選擧報告の演説會に出かけて行つた。そこでの演説を終へ、他の村へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]らうと道へ出かゝると、五人の紳士がそこに待ち伏せてゐて杉村を何處かへ連れ去つて了つたのである。その場では杉村一人であつたが、その後二三日のうちに書記たちは半分に減り縣本部や各地區の事務所はガラ空きになつた。
 ――がたんと厚い扉のしまる音がし、ついで鐵と鐵のすれ合ふ音がし、消えて行く靴音を耳で追ひながら、その部屋のまん中に崩れるやうに横になつて、杉村はとろとろと何時間か眠つた。――田舍の留置場は人數も少く規則もルーズだつた。一眠りして起きると、ああ、こゝへ來たんだつけ、とあらためて氣づき、小さな窓から日の傾きかげんを測るともう日暮れにほど近い時刻らし
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