。單純な恐怖ではなく複雜なものを孕んだ感情だつた。そしてたとへそれについて訴へる自由が今あたへられたとしても、何人にたいしても話し得ないその事の性質を考へると杉村はたまらなかつた。彼は齒の根も合はぬほどにふるへ、ゐたたまれなくなつて起上り、戸口のところへ立つて行つた。むしやうに人の顏が見たく、さうしたならば氣も樂になるであらうと考へた。
 鐵格子から向うの房内をすかして見て、彼はふたたびあらたなおどろきに打たれた。戸口にちかい壁によりかかつて、これもやはりなにかものほしさうに外を見てゐるのは組合員の一人ではないか。幹部でもなんでもなかつた、しかし日頃から見知り越しの一人だつた。彼はなんのために引かれて來たものであらう。それはいふまでもないことで、もうそんなところまで手をのばしてゐるのかと、馬鹿らしさといきどほりとが一緒になつて胸をつきあげて來るのだつた。しかし思ひがけない顏を見出したよろこびは大きく、かつは知りたいと願つてゐることが聞けるとおもふ豫想にはずむ心はおさへがたく、とんとんと合圖の扉をたたいたのである。
 向うはまつすぐ扉のところまで寄つて來、杉村を認めたやうである。緊張した顏つきになり、房内をふりかへつて何かいふと、人のけはひがしてすぐに二三人立つて來た。一人ではなかつた! みんな見知つた顏である。
 咽喉元まで何か出かかる言葉を、さすがに外をはばかつておさへ、その代りあらゆる親愛の情をそれ一つにこめた微笑を杉村は投げあたへた。
 何がそれに向つて答へられたか。
 ぢつとまたたきもせず杉村を凝視してゐるいくつかの眼は、眼尻に皺一つ寄せなかつた。それは險しくきついものになるばかりであつた。口元はいつまで經つても綻びず、固く結ばれたままにゆがむのであつた。野良からそのまま連れて來られたらしい仕事着のままのもゐる、髯も髮ものび放題の憔悴し切つたその顏にいつかはつきり浮びあがつてゐるものは、人をつきさす非難の色以外の何ものでもなかつた。杉村はいきなりひつぱたかれたやうな氣持だつた。
 突然なかの一人が黄いろい並びのわるい齒を齒ぐきもろともむき出した。
「ちえつ!」
 はげしく舌打ちをし、手をあげ、拳を作つて宙にうちふるやうにすると、ふたたび鐵格子をしつかと掴んで、喰ひ入るやうにこつちを見るのである。――
 事實憎惡と怨恨と憤怒とがこれらの人々をとらへてゐたのであ
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