達しております今日および将来では、特殊の原料、例えば水のようなものとか果物ならば桃のようなもので、きわめて持ちが悪いといったようなもの以外は、相当輸送にも耐えますので、無理にその生産地でそれを使って製造しなければならないというほどのこともないと思いますが、風土だけはまったく輸送不可能のものでございますから、それに立脚した工業であってこそ、真に強みのある、いわゆる意味のある地方工業と私は考えているのでございます。すでに皆様も御承知のことと存じますが、直ぐこの北にある、あの鳥居峠の南北両側において、北には平沢という漆器の製造部落があり、南側には藪原という昔から有名な、今日もこの会場の入口に陳列されておったようでありますあの「お六櫛」の産地がございます。ところが、あの漆器の製造には、どちらかと申しますと、そこの空気の乾燥しているということが希望されておりますし、これに対して、櫛の製造においては、なんとしてもあの細かい歯を一枚一枚挽くのでございますから、空気の湿っている方が悦ばれているのでございます。現に藪原の櫛の工場は、いずれも西日を避けて設けられております。また事実、この両方の部落で調べて見ますと、藪原の方では六、七月頃の梅雨時が一番よい品物ができるといわれているのに、平沢の方ではその梅雨時と九月の雨期とが一番仕事がしにくいと申しております。まだそれでも、この平沢では、ごく多湿の年以外は年中製作してはおりますが、他府県の漆器製造地では年々その雨期には、ついにその製作を中止している地方さえもあるほどでございます。
しかしそれをその鳥居峠の南北両斜面について、あそこの植物について調べて見ますと、その乾燥性に強い「はぎ」の、しかも数メートルもの丈に延びた大きなのが、峠の北側には非常に繁茂しておりますのに、南側には懸賞で探しましてもどうかと思われるほど少ないといったように、著しい対象を見せております。
そうしてこれは、まったくあそこの峠という地形に対し、そこに発達しております風の影響によるのでございます。この峠付近は年中南風のよく吹いているところなのでございます。幸いあそこの峠の頂には、森林測候所がございまして、その観測の結果から最も信用のできる資料を知ることができますが、つまり、南風がこの峠の南斜面を這い登り、時にはそこに霧さえ起し、今度はそれが北側へ吹き下す時には、一種のフェーン型のものとなりまして、かえって乾くのでございます。また事実、測候所の観測によりましても、南側には霧が多く北側にはきわめて少ないと申しております。
もちろん、農業とは違って、工業方面では、割合にその仕事場が狭くてすみますから、ある程度までは、そこに人工で、その工業の要求に近い気候すなわち人工風土を作り出すことはできましょう。しかしそれだけ、生産費の嵩むことになります。もっともその工業の要求通りの自然的気候を持つということは、そうたくさんにはありえないことでありますから、多少は常に、そこに人工的の気候を作って補わなければならないことになりますが、それにしても、気温の高過ぎるのを低くするよりも、低いのを高くする方が容易でありますし、また、湿度の高いのを低くするよりも高める方がかえって容易でもあり、かつ安価にもできます。ですから、その工業に対して、どちらかといえば多少低温すぎるとか、乾燥過ぎる方が、その反対の性質を持っている風土よりは気候的に恵まれていると考えてよいと思います。平沢の漆器はその点からは明らかに恵まれております。すでに慶長年間から、家内工業として起ったものだとのことで、今では部落のほとんど全体が漆器工業化されており、従業員四〇〇人で年額三三万円の生産を挙げており、さらに近いうちに五〇万円近くまでも発展させてやろうと意気込まれております現状は、まことに偶然ではないと私は考えております。実に両部落とも、そこの風土を生かしている、実に見事な地方産業であると私は礼讃申している次第でございます。
昨今、わがこの信州の各所に勃興いたして来ております早漬大根にしましても、あれは確かに、かの秋風の吹くようにならなければ、よい質の大根はできないといわれているその大根に対し、わがこの信州の持つ早冬的気候が手伝っているのでありまして、まことに信州のもつその風土性を織込んだ産業として美しい一つと考えますが、ただその製造に当って、米糠や大根以外にことさらに砂糖や絵具を加えて、人工的にしかも一時的に味や色を出そうとされるかに思われる現状に対しては、深く考えさせられるのでございます。私はそれよりも、この信州の冷涼な気候を利用しまして、できる限り品質のよい大根を作り、純粋の大根と米糠といったような原料だけできわめて長い時間をかけてじりじりと漬け込んで行き、いっそうのこと、それを
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