化石にもあらず、また凍結せしものとも思われず、このへん地球の果の不可思議なる大気の作用にて、彼の巨船中のものはただに人間のみならず、珍宝も貨財もすべてあらゆる物、昔の形と少しも異《かわ》る処なく、実に美わしき一種の固形体と化して残りおるなり、されど余はそれらの物を眺めおるうちに、真に名状すべからざる寂寞を感じたり、寂寞はやがて恐怖と化せり、もはや長く船内に留まるあたわず、逃ぐるように巨船の甲板上に出て見れば、余の帆船はすでにことごとく一団の火焔となり、火勢はその絶頂を過ぎてこれより漸々《ぜんぜん》下火にならんとす、余は呆然として船首より船尾へと走りしが、炎々《えんえん》と閃めく火光にふとこの巨船の船尾を見れば、そこには古色蒼然たる黄銅をもって、左の数字を記されたり。
『瑠璃岸国の巨船[#「瑠璃岸国の巨船」に白三角傍点]』
『オオ、何等の怪事ぞ!』と余は絶叫せり、余は学者にあらねば詳しき事は知らねど、かねて耳にせる事あり、これ世界の歴史がなお黒幕におおわれたりし時代、アフリカ西岸に古代の文明を集めたる瑠璃岸国のある好奇《ものずき》なる国王が、世界を経めぐらんとの望みを起して一大巨船を造り、百人の勇士と百人の美人と、その当時にあらゆる珍宝貨財とを乗せて本国を発せしが、南太平洋に乗りいりし後まったく行方不明となり、いまなお一大疑問を世界に遺《のこ》せりと云うが、今日余がここに見るこの巨船は、その瑠璃岸国の巨船にはあらざるか、余は数千年以前の巨船がいかなる理由によりて、いまなお現存せるやをしらずといえども、ここに現存せる事だけは事実なり、これには科学上の不可思議なる理由あらん。もしこれが果して瑠璃岸国の巨船なりとせば――嗚呼余は学者にあらざる事を憾《うら》む――この船の発見がいかに古代の文明を今日の世界に紹介し、いかに多くの利益を現世紀以後の学者社会に貢献するかを――されどかかる事は云うだけ無益なり、余は今にもこの世を去るべき身なり、いかにしてもふたたび人間社会に帰るあたわざる身なり、余の乗り来りし帆船《ほまえせん》の燃ゆる火焔の消ゆるとともに、余はこの地球の果においてただちに凍死《こごえし》なん、いな瑠璃岸国の国王並びに勇士美人のごとく、一種異様なるミイラとなって空《むな》しく残らん、今や余の魂は飛び腸《はらわた》は断たんとす、せめてはこの奇怪事を人間世界に知らしめんとて、余はおぼつかなくも鉛筆を取り出し、数葉の黄紙にこの事を記す、●
余の文は拙《せつ》なり、されど万一にもこの秘密にして何時か人間世界に[#「人間世界に」は底本では「人関世界に」]現わるる事あらば、世の学者諸君よ、願わくは死を決してこの南極に探険船を進めよ、じつに世界の一大秘密はここに伏在せるなり、かく記せる間に火焔《ほのお》ははや消えんとす、余の脚は爪先よりすでに凍り始めたり、手の指ももはやきかずなれり、これにて筆を止めん、幸いに余のポケットには今なお残れる一瓶のビールあれば、余はそのビールを末期《まつご》の水として飲み、快くこの世を去らん、しこうしてその空瓶にはこの一書を封じて海中に投ずるなり、もしこの瓶|氷塊《ひょうかい》にも砕けず、海底にも沈まず――オー、オー、オー、火焔はすでに消えたり、もはや一分の猶予もなし、一字も記すあたわず、これにてさらば。
 以上はコルテス博士がポルトガルの海岸にて拾上《ひろいあ》げし、不思議なる瓶中《びんちゅう》より出でし不思議なる書面なり、記者はもはや多く記さず、賢明なる読者諸君は、なにゆえに近頃ヨーロッパの学者社会より、幾度の失敗にも懲りず、しばしば不思議なる南極探検船の派遣せらるるか、その秘密をば知りたもうべし。



底本:「日本SF古典集成〔※[#ローマ数字1、1−13−21]〕」ハヤカワ文庫JA、早川書房
   1977(昭和52)年7月15日発行
初出:「中学世界」博文館
   1905(明治38)年1月号
入力:田中哲郎
校正:山本弘子
2009年4月30日作成
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