波の甲板に打ちあぐる音、風の檣《ほばしら》と闘う音、悽愴《せいそう》とも何んとも云うべからず、余は恐怖のために一時気絶せんとせしが、かくてあるべきにあらず、船の震動ようやく収まりし時、恐る恐る船底より甲板に這い出でて見れば、こはそもいかにこはいかに、前面に天をおおうがごとく聳立《そばた》つは一大氷山なり、余の乗れる船はついに地球の果に達し、今しもこの一大氷山の一角に乗りあげしなり、万事休す! 余は思わず甲板上に身を投げて慟哭せり、されど泣けばとていかでかこの悲境より免るるをえん、しばらくたって余はふたたび甲板上に立ちあがりしに、今は地球の果に来りて、大氷山の陰になりしためにや、風も何時か吹きやみて、船が氷山の一角に乗りあげし時、その余響を受けて荒れまわりし激浪怒濤も、次第々々に静かになり、四辺は急にシーンとせり、人の恐るる地球の果、人間とては余の他には一人もなく、鳥もおらず、獣もおらず、魚すらもおらず、●
実にこの天地間にあって、何の物音も聴えぬと云うほど物凄き事はなし、余は寂寥のためにまず気死《きし》せんとせしが、ようやく気を取直してそろそろ四辺を見まわすに、天地間の暗き事依然として異らざりしか、その暗き間に、余は忽然として一大怪物を見出せり、何等の怪! 何等の奇! 怪物は余が帆船の右舷とほとんど触れんばかりに相列び、その動かざる事山のごとく、その形もまた巨山《おおやま》のごとき黒き物なり、大氷山か? 大氷山か? あらず、大氷山ならば白きはずなり、余は怪訝《いぶかり》にたえず、眼を皿のようにして見詰めしが、暗々陰々《あんあんいんいん》として到底その正体を見究むるあたわず、かかる間にも寒気はますます加わり、もしこのままにてなお十分間を過さば、余はついに凍え死ぬべし、ああいかにしてこの寒さを防《ふせ》がん、数十枚の毛布はすでに着尽したり、もはや着るべきものは一枚もあらず、余は血走る眼《まなこ》に四方を見まわせしが、フト一策の胸に浮ぶやいなや、狂獣のごとく走って船底に飛び降り、いまなお消え残る一個の船燈を取るより早く、燈を砕き油を船中に振撒《ふりま》いて火を放てり、●
悪魔の舌のごとき焔は見る間に船中を這いまわり、続いて渦巻く黒煙とともに猛火は炎々と立ち昇る、余は甲板上に飛出したり、オオ余は我船を焼けり、我船を焼けり、もし地球の果よりふたたび人間世界に帰らんとするならば、この船のほか頼むべき物なきに、ついにこの船を焼けり、余は寒さにたえずして余の生命を焼けるなり、かく心付《こころづ》くとともに、余はあわててその火を消さんとせしが、この火を消さば、余はただちに凍えて死なん、この火のある間がすなわち余の生存期間なり、余の身体はようやく暖かくなれり、されど余の胸のうちは苦悶のために焦《こ》げるようなり、とかくする間に火は船尾の方より甲板上に燃え抜けたり、余は夢中に船尾より船首に向って走る、火はあたかも余の後を追うよう、見る間に甲板上に燃え拡がれり、もはや行くに処なし、寒気のために凍死《こごえし》なんとせし余は、今や猛火のために焼死なんとするなり、余は天に叫べり地に哭《な》けり、眼は独楽《こま》のごとく回転して八方を見まわすに、船を焼く火の光高く燃えあがるにしたがい、暗黒なりし天地もようやく明るくなり、たちまち余の眼に入りしは彼の一大怪物の正体! 炎々天を焦す深紅の焔に照らしてよく見れば、そは古色蒼然たる一種不可思議の巨船なりき、まったく近世においては見るあたわざる古代風の巨船なりき、思うに余の帆船《ほまえせん》と同じようなる運命にて、何時の頃かこの地球の果に押し流されしものならん、今は船中ことごとく氷にとざされて、その動かざる事あたかも巨山のごとし、余は疑えりあやしめり、されどその間にも火勢はますます激しく、余の帆船は今や全部一団の火とならんとす、●
躊躇せばただちに焼け死なん、余は前後を考うる遑《いとま》もなく、船首甲板の尖端より身を跳らし、ほとんど舷に接せる彼の怪物――一大巨船の上に飛び乗れり、驚くべし! 余は彼の船上に飛び乗りただちに船内に走入って見るに、その船内の華麗《うるわ》しき事あたかも古代の王宮のごとく、近世の人は夢想する事も出来ぬ奇異の珍宝貨財《ちんぽうかざい》眼も眩《げん》するばかりにて、その間には百人の勇士を右に、百人の美人を左に、古代の衣冠を着けたる一人の王は、端然として坐しいたり、余は跳上《おどりあが》って喜べり、オオ生ける人! 生ける人! と、余りの懐かしさにたえずその前に走り寄れば、こはそもいかにこはいかに、彼等はことごとく生ける人にあらず、笑いを含めるあり、六ヶ敷き顔せるありといえども、すべてこれ死してより幾千年をへたるにや、その全身はあたかもミイラのごとく化石しおれり、いな、ミイラにもあらず、●
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