はら》む大檣の帆をすら降さば、船は停止せぬまでもその進行|緩《ゆるや》かにならん、進行の緩かとなるは、それだけ余の死期の遅くなるゆえと、余は仰いで大檣の帆を眺めしが、帆は高くして張り切るばかり、帆綱さえ激しく檣桁《ほげた》に巻きつきたれば、元来水夫にはあらぬ余の、いかでかこの大暴風《おおあらし》に帆を降す事を得べき、熟練せる水夫といえども、この場合|檣《ほばしら》の上一間以上昇らば、魔神のごとき疾風に吹飛ばされて海中に落ちん、かかる疾風に追われて、船はいまじつに想像する事も出来ぬ速力にて走りおるなり、走ると云わんよりは飛べるなり、天空を飛べるか海上を走れるかほとんど分らず、泡立つ波、舞いあがる水煙はあたかも雲ににたり。
十
時にたちまち見る、暗憺たる海上に一道の光ゆらゆらと漂うを、オオ光! 光! この場合光ほど懐かしきものはなし、あれは太陽がふたたび[#「ふたたび」は底本では「ふただび」]我が眼前に現われしかと見直せば、何時の間にかその光は波間に消えて跡もなし、これ南極にときどき現われると云う、海上の燦火《ホスポラス》ならん、余はもはや絶望の声も出でず、かかる間にも船の走る事はますます速く、船の進むにしたがい寒気はいよいよ激しく我身に迫る、余はついにたえずふたたび船底に逃げこみしが、余の腹は飢えたりといえどももはや食を取らんとは思わず、ただちに船尾の倉庫に駆《か》けつけ、あくまで着たるが上にもさらに毛布を重ねたり、されどなお寒さは凌《しの》ぐあたわず、一刻々々あたかも時計の針の刻み込むごとく寒気の増しゆくは、船の一刻々々大氷山に近づくゆえならん、その寒さの増すにしたがい、余はかたわらに、積まれたる毛布を取って、十分に一枚、九分に一枚、八分に一枚、ついには三分間に一枚ずつ重ね、数十枚の毛布《けっと》を着尽したり、今は着るべきものもあらず、身はさながら毛布の山に包まれしがごとく、身動きも出来ずなったれど、寒さはなおやまず、●
いな、以前よりも激しき速度をもって増し来る、肉もちぎれるようなり、骨も凍るようなり、オオこの寒さをいかにして忍ばんと、余は堪えがたき苦痛に、狂うがごとくそのへんを走り回りしが、足はいま中部船底より船首船尾に至らんとせし一刹那なり、あたかも全船砕くるごとき響きとともに、船は急に停止せり、続いてビリビリと船の何物にか乗りあぐる音、
前へ
次へ
全18ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
押川 春浪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング