身体を動かしながら、如何にも苦しげに唸いているのだ。
文彦は何を思ったか、銃をそこに投げすてて、その側に駆けよって、電気ランプを点した。
四辺が一時にパッと明るくなった。仆《たお》れているのは二人の洋装の男子である。
文彦はそのランプの光で二人の顔をすかし見たが、
「あッ」
といったきり、洋燈《ランプ》をそこに取り落して終った。この様子に東助は吃驚して駆け寄りながら、
「もし若旦那様どうなさりました。もし若旦那様。」
といわれて文彦はようように気を取り直して我に還ったが、再びその人に縋り付いて、
「叔父さん。僕です、文彦です。気を慥《たし》かに持って下さい。文彦です。文彦です。」
といいながら抱き起す。
東助も始めてそれと心付いて、
「おお篠山の旦那様でございますか。どうぞ慥《しっか》りなさって下さい。若旦那様と東助がお迎に上りました。もし、」
と縋り付いて耳元で声をかける。
「薬※[#感嘆符二つ、1−8−75] 水を早く※[#感嘆符三つ、46−上−8]」
「はい。」
と東助がさし出す気付を口に入れて、吸筒《すいとう》の水を呑ませると、今迄息も絶え絶えに唸いていた博士は、ようように眼《まなこ》を開けた。
「叔父さん。お気が付きましたか。文彦です。僕です。」
「おお文彦か。」
「はい。」
「篠山の旦那様! お気がつかれましたか。」
「よく来てくれた。」
と一口言ったが、一時に安心するとともに、今迄張りつめた気も弛んで、再びそこに仆れようとする。
「叔父さん、どうぞ確然《しっかり》して下さい。」
とブランデーを口に注ぐと、漸く又正気に復して、
「よし。もう俺は大丈夫だ。杉田を、杉田を、」
と、指示すので、
「はい。」と文彦は側に打ち仆れている助手の杉田を抱き起して見ると、もうすでに絶命《ことき》れて身体は氷のように冷え切っている。
それでも万一と、薬を呑ませて色々と介抱したが、もう如何とも仕方がない。
「叔父さん。杉田はもう駄目です。とても助かりません。」
「そうか。可哀相《かわいそう》な事をした。」
博士は思わずハラハラと涙を流した。
博士の行衛
暫くして文彦は思い出したように、
「叔父さん。今私どもの道具はここから十五里ばかりの処に置いてあります。そこまで御連れ申したいですけれど、この御様子ではとてもお動かしすることは出来ませんから、一まず荷物を悉くこちらへ運んでここで暫く御介抱致す考です。それで私はこれからそれを取りに帰ります。その間この東助をお側に付けておきますから、二、三日このまま御辛抱なすって下さいまし。」
と耳元で囁くと、博士は静かに黙頭《うなず》いた。
文彦は立ち上って東助に向い、
「それでは僕はこれから行って来るから、留守を確然《しっかり》預かっていてくれ。」
「よろしゅうございます。どうも御苦労様でござります。」
「じゃ後をよろしく頼むよ。」
と、再びその洞を出て元来た道に引返した。
二日目の朝いよいよ自分の天幕《テント》に帰ってまず飛行船を組み立て天幕などを取片付けてその中に入れ、大急ぎで飛行船に乗じて、又かの洞穴に立ち返った。
飛行船を降りるや否や、
「東助、東助。」
と呼んだが更に答がない。
「どうしたんだろう。」
と独言《つぶや》きながら奥に行くと、灯《あかり》は消えて四辺は黒白《あやめ》も分かぬ真の闇だ。
「叔父さん※[#感嘆符二つ、1−8−75] 只今帰りました。文彦です。東助。東助は居ないか。」
と大声を挙げたが依然として、答うるものは物凄い己れの声の反響のみだ。
文彦は一時に不安の念がむらむら[#「むらむら」に傍点]と起って、急ぎ懐中洋燈を点じて見ると、
「や。や。」
誰も居ない※[#感嘆符三つ、47−下−6]
洞穴の中は虚《から》だ※[#感嘆符三つ、47−下−7]
ただ一人杉田の亡骸《なきがら》のみが残っている。
「失念《しま》った※[#感嘆符三つ、47−下−9]」
と叫んで暫時我を忘れて茫然としたが、たちまち気を取り直して、側に放《な》げ棄てておいた自分の鉄砲を取り上げるや否や、駆け出そうとすると、何物にか躓《つまず》いてばったり仆れた。
はっと思って再び洋火《ランプ》を点じて見ると、
東助だ※[#感嘆符三つ、47−下−15] 東助が銃を持ったまま俯伏せに仆れている※[#感嘆符三つ、47−下−16]
文彦は矢庭にそれを抱き起して、
「東助※[#感嘆符三つ、47−下−18] どうしたんだ、慥《しっか》りしろッ。」
と声をかけながら、気付を呑ませるとようよう息を吹き返したと思えば突然《いきなり》、
「畜生、逃がしてなるか。」
と立ち上ろうとするのを慥りと抱き止めて、
「これ東助。僕だ、文彦だ。この様子は一体どうしたのだ。」
と尋ねると、東助はこの声を聞くや否や、文彦に縋り付いて、
「若旦那様※[#感嘆符三つ、48−上−7] 残念でござります。」
「どうした。叔父さんはどうした。」
東助は欷《しゃく》り上げて、
「私がお預かりしていながら、何とも申訳はありませぬが、貴方様のお出発《た》ちなされた後、大旦那様の御介抱を致しておりますると、二日目の晩になって、入口の方で何やら足音が致しまするで、必然《てっきり》貴方様が御帰りなされた事と存じまして、早速御迎に出ますると、貴方様ではのうて、」
「えッ?」
「あの面憎い秋山男爵。」
「何? 秋山男爵?」
「はい。下僕《しもべ》と二人で這入って参ります。」
「うう。それからどうした。」
「ここだここだといいながら、闇《くらがり》で見えなかったのか、私の方にも目もくれず、二人でずんずん奥へ行きますからどうするかと、私も後から蹤いて参りますると、大旦那様のお姿を見るが早いか、『やや篠山博士ですか、秋山が月子さんの御言葉でお迎に上りました』と申しますから、私は矢庭にそこへ飛び込んで、旦那様はもう私の若旦那が二日も前にお会いになって、今道具を取片付けてこちらへお越しになるはずだと申しますると……」
「うん。それからどうした。」
「秋山の畜生め。思い懸けない私を見て吃驚したようでござりましたが、供の平三に何かいい付けると、乱暴にも平三が、あの御衰弱なされた旦那様を引担いで逃げようと致しますから……」
「何平三が?」
「はい。それ逃がしてなるものかと私も一生懸命に争いましたが悲しい事には二人に一人、いよいよ洞穴を出ようと致しますので、せめてこの上は鉄砲で打ち殺してなりとやろうと思って追かけて出かける処を、秋山男爵に乳の辺りに当身を喰《くら》わせられて、それから後は前後不覚、只今貴方様のお声で始めて正気になりましたような次第でござりまする。」
と涙ながらに物語った。
聞き終った文彦は落胆《がっかり》したように、
「ああ折角ここまで苦心しながら、残念な事をしたなあ。」
と投げるがごとくいい棄てて、慨然として天を仰いで長大息したが、再び決然として立ち上り、
「東助、こうなっては腕づくでも叔父さんを取り返さなければならない。叔父さんを無事に連れ帰るのは誰でもいいが、このままにしておいては奸佞《かんねい》邪智の秋山男爵だ、この上如何なる悪計を持って我らを苦しめ、かつ鳩のような月子さんを翫《もてあそ》ぶか知れない。さあ今から出かけるからお前も蹤いて来い。」
「どうぞこの敵を取って下さい。私はもう死んでもきっと秋山めを打ち懲らしてやらずにはおく事ではござりませぬ。」
二人は急ぎ外に出て、飛行船に乗るや否や全速力を以て上昇した。これは、秋山がすでに、飛行船に叔父を乗せて地球へ向けて出発してはいないかを慥かめるためで。
月界の活劇
目指す秋山の姿はいずこと、四辺を見廻したがまだ出発した形跡はない。やれ一まず安心と、今度は双眼鏡で前の洞の附近を見回すと、
「難有い。まだ居る※[#感嘆符三つ、49−下−5]」
洞穴から一里ばかりも距《へだた》った処に、一箇の飛行船があって、その側で二箇《ふたり》の人が何か頻りに立働いている。
疑いもなく秋山男爵の一行だ。
しかしもう一瞬も猶予はならない。彼らがかく立働いているのは慥かに出発の準備に相違ない。
文彦は速力を早めて近づくと、先方もそれと察したか忽々《そこそこ》に飛び乗って、もはや飛行船は飛び去る準備をすべく、その大きな両翼を緩やかに動かし初めた。
まだ両者の距離は一|哩《マイル》もある。
目下の一瞬は文彦に取っては千万年にも代え難いのだ。彼は最極度の電流を出《いだ》して突進せしめながら一発の空砲を放った。
今しも全速力を出そうと把手《ハンドル》を握っていた秋山男爵は、この砲声に思わずその手を放すと、把手は逆に回転して、飛行船は少しく下降した。ハッと思って持ち直した時にはもう文彦の飛行船は手の届くくらいの近距離に近づいていた。
「秋山男爵※[#感嘆符三つ、50−上−4]」
文彦は、勢鋭く声をかけて、
「久しぶりにお目に懸ります。」
と態《わざ》と丁寧に会釈をした。
「左様。」
と秋山男爵は傲然として答えた。
文彦は言葉を継いで、
「秋山男爵。改めて申しますが僕は叔父を受取りに参ったのです。」
「叔父? 叔父というのは篠山博士の事ですか。」
「左様。」
秋山男爵は俄に言葉を荒らげて、
「馬鹿な事をいうな。虫のいい事をいうにしても大概にしておくがいい。僕がここまで態々《わざわざ》死を決して来たのは何のためだ。ただ篠山博士の在処を捜らんがためだ。それほどにして得た博士を何条おいそれと貴様に渡す事が出来るものか。馬鹿※[#感嘆符三つ、50−上−20] それほど欲しくば何故自分で捜さんか。」
と図々しくも逆捻《さかねじ》を喰わせて、
「僕は命賭けて得た博士だ。それが欲しくば貴様も生命を賭して奪うがいい。」
「よろしい。決闘※[#感嘆符三つ、50−下−5] 用意をなさい。」
「生意気な口を利く二才だ。さあ相手になってやろう。」
と互に銃を身構える折しも、不意に一発の銃声とともに、秋山男爵は、
「しまった※[#感嘆符三つ、50−下−9]」
と一口叫んで反り返った。
文彦はこの様に驚いていると、
秋山男爵は苦しげにこなたを睨んで、
「雲井、貴様は卑怯にも斯し討ちにしたな。」
東助はすっくと立ち上って、
「貴様を射ったなあ若旦那じゃねえ。若旦那は貴様のような根性の曲った事はなさらねえ。貴様を射ったなあ己だ。今若旦那と命を取遣《とりやり》をする前に、俺は先刻洞穴の中で貴様から貰ったあの返礼をしてやったのだ。」
と如何にも憎々しげにいい放った。
秋山男爵はこの言葉を聞いて、
「チェッ残念※[#感嘆符三つ、51−上−1]」
と一言叫んだと思うと、急所の傷手にはかなく絶命して終った。
文彦は悪人ながらも男爵の死を悼んで杉田とともに月界に手厚く葬り、その上に紀念碑を建てて其後《それから》一週間ばかりその地に止って、博士のやや元気を回復するを待ち、博士、東助、及び主人の死後改悛の意を表して服従した平三と各々二人ずつ二個の飛行船に分乗して地球に向って出発したのである。
[#地付き](「探検世界」明治四〇年一〇月増刊号)
底本:「懐かしい未来――甦る明治・大正・昭和の未来小説」中央公論新社
2001(平成13)年6月10日初版発行
初出:「探檢世界秋季臨時増刊 第四巻第三號 月世界」成功雜誌社
1907(明治40)年10月
※「ランプ」と「洋燈《ランプ》」と「洋火《ランプ》」、「慥《しっか》り」と「確然《しっかり》」の混在は、底本通りです。
入力:田中哲郎
校正:川山隆
2006年7月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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