月世界競争探検
押川春浪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)表題《みだし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)氏の愛子|月子《つきこ》嬢
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#疑問符一つ感嘆符二つ、41−上−15]
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博士捜索隊の出発
明治四十年十月十日の東京新聞は、いずれを見てもまず読者の目を惹いたのは、一号活字で「恋の競争飛行船の月界探検」と表題《みだし》をだし、本文にも二号沢山の次のごとき、空前の記事であった。
[#ここから2字下げ]
「今より凡《およ》そ半年以前即ち今年五月一日を以て、東京大学教授篠山博士が月界探検のため自ら発明せる飛行船に乗じ助手一名とともに吾が地球を出発せる事は読者の未だ記憶せらるる処ならんが、その後博士よりは今日まで杳《よう》として一片の消息だになく、あるいは飛行船の不完全のため中途その目的を達せずして、研究のためその一命を捧げしには非ずやと伝うものさえありて、飛説紛々として生じ、氏の知己は日夜憂慮しつつあるが、ここに最も哀れなるは、氏の愛子|月子《つきこ》嬢の身の上にして、幼にして母を失いたる嬢は、ただ天にも地にも博士一人を力としいたりしに計らずも今回の不幸に際し、悲歎やる方なく、日は日もすがら、夜は夜もすがら父の身を配慮《きづか》いて泣き明かせるほどにて、そのあまり花をも欺く麗容もあたら夜半の嵐に散り失せぬべきほどの容体となりぬ。その様を黙視するに忍びず、一身を賭して博士の生死を探らんその報酬として運よく探りあてたる方へは、嬢の一身を托せらるべしと嬢に申込みたる二人の青年紳士あり。その一人は秋山男爵にして、一人は博士の遠縁に当る雲井文彦という青年紳士なるが、いずれも博士が、まだ出発せざる以前より深くも嬢に心をよせ己《おの》が胸中のありたけを打ち明けしも、嬢は二人の情に絆《ほだ》されていずれとも答えかねしが、今二人のこの申込に対し、親を思うに厚き嬢は遂にその言を容れたり。されば二人はいよいよ死を決して、嬢が悲を除き、日頃の思を遂げんと、いよいよ今日正十二時を期し、日比谷公園より、各自の飛行船に乗じて出発の途につくべしと。云々《うんぬん》と……………」
[#ここで字下げ終わり]
と、このような小説的の記事を読んで、満都の人々は非常な好奇心と同情を持って、今日の二勇士の首途《かどで》を見んと、四方から雪崩《なだれ》のごとく押しよせて、すでにその日の九時頃には、さしもに広き公園も、これらの人々を持って埋まって終《しま》った。
十一時頃に至って、秋山男爵と、雲井文彦は各従者一名を従え馬車を駆って、徐々《しずしず》と入り来った。
一通り自分の飛行船の各部を詳細に検査して、見送りの人々に一礼してその中に這入って、静かに号砲の鳴るのを待ち構えている。
観衆はいずれも息を潜めて瞻視《みつめ》ている。
やがて時計の長短針が一つになって十二時を指すと、音楽堂の上から一発の砲声が轟《とどろ》いた。と思うと大鷲《おおわし》のごとく両翼を拡げた飛行船は徐々に上昇し初める。
「万歳※[#疑問符一つ感嘆符二つ、41−上−15]」
「秋山男爵の成功を祝す。」
「雲井文彦君万歳※[#感嘆符三つ、41−上−17]」
と一時に破れるばかりの拍手と万歳の声が起って、いずれも帽を投げ、手布《ハンケチ》を振ってその首途を祝した。
飛行船は始めその両翼を静かに動かしながら徐々に上昇しつつあったが、次第にその速力を早めて来た、秋山男爵は東の方へ、雲井文彦は西の方へと針路を取って進んで行く。
刻一刻地上の者は次第に小くなって遂には、一番高い山の頂さえ見えなくなって終った後は、四面ただ漠々として、いずれを見てもただ雲ばかり、両方の飛行船すら如何なる距離を以て進んでいるやら、形も姿も見えない。
ただ雲の間を潜って、舳《へさき》に据えた羅針盤を頼りに、どこをそれという的《あて》もなく昇って行くのである。
月界の到着
雲井文彦の飛行船は、地球を出発してからもう一週間になる。しかしまだ月らしい影も見えない。毎日毎日見る物は相も変らず、真白な雲ばかり、従者の東助はそろそろ心配し始めて、
「若旦那様、今日でもう一週間になりますがまだ何も見えませんのは、もしや方角でも取り違えたのじゃありありましねえか。」
「そんな事はあるまい。確かにこの方角に向って行きさえすれば決して間違うはずはない。」
「それにしても秋山様はどうなさりましただか是非この勝負には若旦那様をお勝たせ申しましねえでは、私の気が済みましねえ。それに第一あの秋山様は世間の噂では、随分|性質《たち》の悪いお方だそうでおざりまするで、どうぞ貴方のお身に万一の事がなければよろしいがと老爺《おやじ》はそればかりを案じておりまする。」
「そんな心配はない。先方《むこう》も爵位を持っているほどの人物だから……」
と話しあっている中に文彦は雲の間から何やら認めて、
「おや、」
と早速双眼鏡を取り出して見たが、
「月だ!……月だ!」
「え? 月でございますか。」
「そうだ。難有い。もう数時間の後には着けるぞ。」
「左様でござりますか、どうぞ篠山の大旦那様がお無事でお出で下さればよろしゅうござりますが。」
という程なく飛行船の速度は次第に増して、月へ月へと吸い付けられるようにと下降し初める。文彦は、
「ブレーキを悉皆《しっかい》かけてくれ。」
と東助に命じて、自分は注意して電圧器を加減しながら、一心に梶を取っている。
やがて船は次第に間近くなって、二人は無事に月界の上に下り立った。
「若旦那様これが月の世界というでござりますか。」
「そうだ。」
「それじゃいよいよ篠山のお旦那様もここにいらっしゃるでがすね、もしあの秋山様に探し出されねえ中に少しも早く……」
「そうお前のように急々《せかせか》したって仕方がないじゃないか、それよりも第一にどこか適当の場所を探して一まず落着く場所を拵えなければならん。」
「成程。それも御|道理《もっとも》でがす。」
と再び二人は飛行船に乗じて、今度は地と擦れ擦れに進みながら、そこここと見下すとある山の麓にこんもりとした林があってその間に一筋の小川が流れている。
「あそこがよかろう。」
とそこに飛行船を降し、その中から予《かね》て用意の天幕を取り出し、力を合せてその森のほとりに建て、飛行船を解剖して小さく畳んでその中に入れて、これで一まず仕度は整うた。
月宮号の惨状
雲井文彦と従者の東助は各自ライフル銃を肩にして篠山博士を捜索に出かけた。
野を越え山を越え処々方々を探し求めたが、更に手懸りがない。五日となり一週間となってもまだ一向に方角が判らぬ。
二人ながら落胆《がっかり》して、とある木蔭に腰を卸《おろ》して、
「どうしたんだろう。それとも途中で方角を取り違えて他の星へ行かれたのではないかしら。」
「左様でござります。場合によりましてはそんな事でもありましたかも知れましねえ。しかし折角ここまで来たものでござりますれば、今少し辛抱してお捜しなされて……」
「そりゃ勿論死ぬまでも捜す決心だ。」と奮然として答えて、
「少し寒けがして来たが何か焚火をするものはないか。」
「どれ私が拾い集めて参りましょう。」
と東助は出て行ったが、やがて一抱えの燃料《もえぐさ》を持って立ち帰って来たので、それを焚いて温りながら、一つ一つ差しくべつつ話しをしていたが、文彦は何心のう今自分の持っている木を見るとこの月世界に見なれぬ、しかも何やら彫刻したように出来ている。
よくよく見ると飛行船の部屋の装飾で擬《まがい》ものう篠山博士の飛行船月宮号の附属品だ。
「やッ※[#感嘆符三つ、43−下−7] 手懸りがあった。」
「え?」
「これを見い。」とそれを東助の眼の前に突き出して、
「これは叔父さんの飛行船に着けてあった飾りだ。これがあるくらいなら、どうしても叔父さんはここへ来られたものには違いないが、飛行船が壊れたため地球へ帰る事が出来ないでここにそのまま止まっていらっしゃるんだ。難有い。これこそ天の与えだ。」
「じゃいよいよ大旦那様はここにお出でなされましたに違いねえ。さあそれじゃ一刻も早くお在処《ありか》を探し出して……」
「それにしても方角が判らないから、一まずこの木の落ちていた附近を検べて見たら、も少し何か判然した手懸りがあるかも知れない。」
と東助を先に立てて、先刻焚木を集めた処に行ったが、他に別段変った事もない。向うに出ようとその横の森を通ると、やや広い空地に出た。
「やッ飛行船だ※[#感嘆符三つ、44−上−4]」
「月宮号※[#感嘆符三つ、44−上−5]」
二人は驚きの余り思わず声を発した。見よそこには無惨にも日本科学の粋を集めた篠山博士の飛行船月宮号は、微塵となって散らばっている。
東助はこの様を見るより声を挙げて泣きながら、
「若旦那様、この様子じゃもう篠山の旦那様は、とても助かりっこはありません、この様子を申し上げたら、さぞ嬢さまは吃驚して気絶してお終いなさるでしょう。若旦那様どうしたらようがしょう。」
「しかしまだそう落胆するには及ばない。如何にも飛行船はこの通り壊れて終っているけれど、叔父さんのお姿が見えない処を見れば、どこか他に安全な処におらるるに違いない。その上助手の杉田も一伴《いっしょ》だのに、二人ながら居ないとすればきっと、この附近に逃れておらるるだろう。」
と力をつけながら、
「いよいよこれだけの確かな手懸りがあれば、もう再び叔父さんのお目に懸るのも遠くはあるまい。さあ今一奮発だ。」
と、自ら先に立って歩き出したので、東助もようよう涙を止めて続いて行った。
洞穴内の怪音
かれこれ三、四里も進んだ頃、もう四辺は次第に暗くなって来た。
「もう夜になっては探せないから、今日はどこかに野宿して、明朝早く探すことにしようじゃないか。」
と、適当な場所をと見廻したが、ここらは一面の禿山と原で更に露を凌ぐに足るほどな処もない。
と、突然東助が、
「若旦那様、先方《むこう》に洞穴があります。」
と叫んだので、
「どれ。」
と指先《ゆびさ》す方を見ると十町ばかり向うの山の麓に一個《ひとつ》の洞穴がある。
「あの中に一泊しよう。」
とそこをさして行って見ると、思ったよりは広い洞《あな》で奥の方も余程深いらしい。
荷物を卸して、座りながら、革鞄《かばん》の中からビスケット[#「ビスケット」は底本では「ビスミット」]を取り出して食っていると、
不思議※[#感嘆符三つ、45−上−5] 不思議※[#感嘆符三つ、45−上−5]
洞穴の奥で何やら唸《うめ》くような声がする※[#感嘆符三つ、45−上−6] 二人は驚いて、互に顔を見合せていたが、東助は声を潜めて、
「あの声は何でしょう。」
「さあ。」
と、始めは空耳ではないかと、耳を澄ますと、その唸り声は尚聞える。静かな、湿っぽい、洞穴に、弱々しい、切なげなその声が幽《かす》かに聞えて、二人は思わず戦慄した。
文彦は矢庭《やにわ》にライフル銃を取り上げて、装填しつつ立ち上り、東助をさし招いた。
東助も同じく玉籠めして主人の後に続いた。二人はさながら猫の鼠を覗《ねら》うように、息を凝らし、足音を忍ばせてその音のする方に這い寄った。
二、三間も行くと道は右に折れている。
唸り声は正しくそこから洩れて来るので、余程遠いと思ったのは、その声の余りに幽かに弱々しかったからで。
突き出た大きな岩の手前まで来ると、その声はいよいよ鮮《あきらか》になった。
正しくそれは人の唸り声だ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
急ぎその岩を巡ると、広い一室の真中に、一箇の蝋燭が今にも消えんばかりに点って、ほの白く四辺を照らしているその下に、何やら黒い物影が二つ横わっている。唸り声はその中の一つから起っているので、その黒い影は時々
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