のとき》春枝夫人《はるえふじん》の殊勝《けなげ》なる振舞《ふるまひ》、さては吾等《われら》三人《みたり》が同時《どうじ》に、弦月丸《げんげつまる》の甲板《かんぱん》から海中《かいちう》に飛込《とびこ》んだのに拘《かゝは》らず、春枝夫人《はるえふじん》のみは行方《ゆくかた》知《し》れずなつた事《こと》、それより漂流中《へうりうちう》いろ/\の艱難《かんなん》を經《へ》て、漸《やうや》く此《この》島《しま》へ漂着《へうちやく》した迄《まで》の有樣《ありさま》を脱漏《おち》もなく語《かた》ると、聽《き》く人《ひと》、或《あるひ》は驚《おどろ》き、或《あるひ》は嘆《たん》じ、武村兵曹《たけむらへいそう》は木像《もくぞう》のやうになつて、眼《め》を巨大《おほき》くして、息《いき》をも吐《つ》かず聽《き》いて居《を》る、其他《そのた》の水兵《すいへい》も同《おな》じ有樣《ありさま》。
語《かた》り終《をは》つた時《とき》、櫻木海軍大佐《さくらぎかいぐんたいさ》は靜《しづ》かに顏《かほ》を上《あ》げた。
『實《じつ》に、君《きみ》の經歴《けいれき》は小説《せうせつ》のやうです。』と言《い》つた儘《まゝ》、暫時《しばし》私《わたくし》の顏《かほ》を瞻《なが》めて居《を》つたが、物語《ものがたり》の中《うち》でも、春枝夫人《はるえふじん》の殊勝《けなげ》なる振舞《ふるまひ》には、少《すく》[#ルビの「すく」は底本では「すな」]なからず心《こゝろ》を動《うご》かした樣子《やうす》。特《こと》に櫻木大佐《さくらぎたいさ》は、春枝夫人《はるえふじん》の令兄《れいけい》なる松島海軍大佐《まつしまかいぐんたいさ》とは、兄弟《きやうだい》も及《およ》ばぬ親密《しんみつ》なる間柄《あひだがら》で、大佐《たいさ》がまだ日本《につぽん》に居《を》つた頃《ころ》は始終《しじう》徃來《わうらい》して、其頃《そのころ》、乙女《おとめ》であつた春枝孃《はるえじやう》とは、幾度《いくたび》も顏《かほ》を合《あは》した事《こと》もある相《さう》で、今《いま》其《その》美《うる》はしく殊勝《けなげ》なる夫人《ふじん》が、印度洋《インドやう》の波間《なみま》に見《み》えずなつたと聞《き》いては、他事《ひとごと》と思《おも》はれぬと、そゞろに哀《あわれ》を催《もよう》したる大佐《たいさ》は、暫時《しばらく》して口《くち
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