下界《した》を見《み》ても、雲《くも》や霧《きり》でまるで海《うみ》のやうだ。悪《わる》いラランも少《すこ》しばかり寂《さび》しくなつてきた。今度《こんど》こそ腹《はら》も減《へ》つてきた。すると突然《とつぜん》、ヱヴェレストの頂上《てうじやう》から大《おほ》きな聲《こえ》で怒鳴《どな》るものがあつた。
『ラランいふのはおまへか。ヱヴェレストはそんな鴉《からす》に用《よう》はないぞ。おまへなんぞに来《こ》られると山《やま》の穢《けが》れだ。帰《かへ》れ、帰《かへ》れ。』
山《やま》全体《ぜんたい》が動《うご》いたやうだつた。急《きふ》に四辺《あたり》が薄暗《うすくら》くなり、引《ひ》き裂《さ》けるやうな冷《つめた》い風《かぜ》の唸《うな》りが起《おこ》つてきたので、驚《おどろ》いたラランは宙返《ちうがへ》りしてしまつた。そこへまた、何《なに》か雷《かみなり》のやうに怒鳴《どな》る聲《こえ》がしたかと思《おも》ふと、小牛《こうし》ほどもある硬《かた》い氷《こほり》の塊《かたまり》がピユーツと墜《を》ちてきて、真向《まつこう》からラランのからだを撥《は》ね飛《と》ばした。アッと叫《さけ》ぶ間《ま》もなく、気《き》を失《うしな》つたラランは、恐《おそ》ろしい速《はや》さでグングンと下界《した》に墜《を》ちていつた。
もう夜《よ》になつた頃《ころ》だ。深《ふか》い谷間《たにま》の底《そこ》で天幕《テント》を張《は》つた回々教《フイフイけう》の旅行者《りよかうしや》が二三|人《にん》、篝火《かがりび》を囲《かこ》んでがやがや話《はな》してゐた。
『まさか不思議《ふしぎ》なもんだ。両方《りやうはう》の眼玉《めだま》が無《な》い鴉《からす》なんて、どうしたこつた。』
『猟師《れふし》に撃《う》たれた様子《やうす》でもなかつたし。』
『でもここいらの岩角《いはかど》に打《う》ちつけられちや、なんぼでも生命《いのち》は無《な》いにきまつてらあ。』
『そりやさうだ。とにかく可哀《かあい》さうなやつよ。』
これは多分《たぶん》あのペンペの噂《うはさ》に違《ちが》ひない。すると元気《げんき》で正直《しやうじき》なペンペも死《し》んでしまつたのか。そんな話《はなし》の最中《さいちう》にサァーツと音《おと》をたてゝ漆《うるし》のやうに暗《くら》い空《そら》の方《はう》から、直逆《まつさか》さまにこれはまた一|羽《は》の鴉《からす》がパチパチ燃《も》えてる篝火《かがりび》の中《なか》に墜《を》ちてきた。もちろんそれはヱヴェレストの怒《いか》りに触《ふ》れた、ラランの気《き》を失《うしな》つた姿《すがた》であつた。回々教《フイフイけう》の旅行者《りよかうしや》たちはすつかり面喰《めんくら》つて、ラランを火《ひ》の中《なか》から引《ひ》き出《だ》したが、やつと正気《しやうき》づいたラランは舌《した》の自由《じゆう》がきかないほど、口《くち》の中《なか》を火傷《やけど》してゐた。カラカラと笑《わら》ふどころではなかつた。そこでペンペの話《はな》しを聞《き》いたラランは、深《ふか》く自分《じぶん》の悪《わる》かつたことを悔《く》いて、ペンペを葬《ほほむ》つてくれた旅行者《りよかうしや》たちにすべてを懺悔《ざんげ》した。翌朝《よくてう》、旅行者《りよかうしや》たちは天幕《テント》をたゝんで北《きた》の方《ほう》に発《た》つた。ラランはそのみにくい姿《すがた》のまゝ残《のこ》された。暫《しばら》くして、ラランはその[#「その」は底本では「そ」]弱《よは》つたからだを南《みなみ》へ向《む》けて、熱《あつ》い印度《インド》の方《はう》へふらふら飛《と》んでゐたが、ガンガといふ[#「といふ」は底本では「といふの」]大河《たいか》の上流《じようりう》で、火傷《やけど》した口《くち》の渇《かわ》きを湿《うる》ほさうとして誤《あやま》つて溺《おぼ》れ死《し》んでしまつた。
今《いま》でも世界中《せかいちう》の鴉《からす》の口《くち》の中《なか》には、その時《とき》の火傷《やけど》のあとが真赤《まつか》に残《のこ》つてゐるといふ。人《ひと》に嫌《きら》はれながらも、あの憐《あは》れなペンペのために泣《な》いてゐるのだ。
底本:「逸見猶吉の詩とエッセイと童話」落合書店
1987(昭和62)年2月20日発行
底本の親本:「児童文学 第2冊」文教書院
1932(昭和7)年3月10日発行
※片仮名の拗音、促音を小書きする底本本文の扱いを、ルビにも適用しました。
入力:林 幸雄
校正:土屋隆
2008年6月7日作成
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